13089 奥羽山系の森を通して流れてくる風  古澤襄

奥羽山系の懐に抱かれた西和賀町で300年の歴史を刻んだ古澤家だから、東京新宿区で生まれ、東京で育った私の身体には農民の血が流れている。”東京ッ子”ではなく”田舎ッ子”だと自覚している。
利根川を渡ったところに”終の住処”を定めて、そろそろ20年になろうとしているが、朝はパン食。雪印のバターを塗ったパンを一枚、それも愛犬バロンがせがむので耳のところはちぎって与える。バターの塗りが少ないと「これではダメだ」と床の上に置いてソッポを向くから、犬まで”東京ッ子”。
それが西和賀町の旅館では、飯食い茶碗でお代わりを二杯。秋田こまちの米なのだが、関東のスーパーで買う秋田こまちと違ってねばり気があって味がよい。さすがに三杯のお代わりはしなかったが、味噌といい醤油といい、東北のものは塩っ気があって私の趣向に合う。
ことしは春からアレルギーが出てくしゃみの連発に悩まされタバコをしばらくやめていた。東北に来て清涼な空気を吸っているとアレルギーがいつの間にか治まっている。奥羽山系の森を通して流れてくる風が心地よい。
菩提寺では親族や知人が集まってきてくれて、本堂で二人の和尚さんが先祖の供養する場に付き合っていただいた。昨年に建てた古澤家累代の墓の前で二人の和尚さんが読経をしてくれ、線香を手向けたが親族や知人も付き合っていただいた。それぞれが忙しい身体なのだが、東北の人たちは暖かい心根の持ち主ばかり。夜は夜で二晩とも集まってくれて酒盛り。
「81歳になったので、お銚子は一本だけ・・・」といったのだが、勧め上手に乗せられて四本も胃に流し込んだ。深夜に温泉に入り、朝も温泉につかったのだが、昨年は杖がなくては歩くのに難儀したのが、ことしは杖なしで歩ける。
先祖累代の墓を菩提寺に建立したし、孫も東京大学にストレート合格した。この世における私の役割は終えたと達観しているが、そうなると”お迎え”がなかか来てくれない。西和賀町から秋になったら、また来てくれとメールを頂戴した。東北旅行中に母方の祖父の実家から、「野人牧師 70年の足跡」という本が届いた。
筆者の山崎長文氏は母の従兄、南米ブラジルでキリスト教牧師として活躍した。1971年夏に45年ぶりに帰国して、1979年夏に再帰国し、8月21日に横浜のわが家に訪ねてきて頂いている。
<8月21日 横浜に住む古澤まきさんを初めて訪ねました。彼女は私の叔父・山崎由信の子、つまりは従妹に当たる人です。由信叔父は才能ある人でしたが、酒癖が悪く、上田市の木村という陶器店に婿入りしたのですが、酒癖のために出されたのです。
その時すでに胎内に在ったのが古澤まきさんなのです。初めて会った従妹のまきさんはその時68歳で、脳血栓を患い、半身不随という気の毒な姿でした。(野人牧師)>
信州・上山田の旧家である山崎家は善彦氏の代になっている。善彦氏は私と再従兄弟、血が繋がっている。同じ上田高校の出身。秋には上山田に行って、再従兄弟の出会いをしたい。
母は実践女子大英文科の予科一年の夏に上山田を訪れていた。小説「碧き湖は彼方」で山腹にあるお城のような白壁の家を訪れ、由信祖父の母が「これが由信の杏子(母のこと)かえ、まあ、まあ、こんなに大きくなって」とさめざめと泣く情景が描かれた。
<杏子の祖母は片ときもそばをはなれなかった。屋敷内を一巡した後に、裏山にのぼりはじめた。途中、目に入る限りの山々は殆ど、山崎の持山だときかされた。やがて山の斜面を切り開いた一族の墓地に出た。(碧き湖は彼方)>
秋には、その墓も詣でたい。やはり”お迎え”はしばらく待って貰うしかない。
杜父魚文庫

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