13539 敗戦に向かう一年余りの真実  古澤襄

八月は「鎮魂の月」という人がいる。私にとっては敗戦に向かう一年余りの年月を思い、考える月と定めている。この一年余りについては、様々な論考・証言があったが、身近で動きをみてきた私には、いずれも隔靴掻痒の観が拭えない。真実を知る者は、戦後の風潮の中で口をつぐみ、そのまま亡くなっている。
敗戦の前年・昭和19年12月7日の夜、B29の空爆が激しい東京を母と二人で脱出した。開戦日の12月8日に帝都を壊滅させる空爆があるという軍情報で、特高警察に護られて上野駅に送られた。
母は私を信州の上田に送り届けて、すぐ帰京。翌年の3月10日の陸軍記念日に帝都を壊滅させる大空爆に遭遇している。すでに父が3月3日に出征していたから、東京・原宿近くに家を母が護っていた。
父の日記は3月3日朝で終わり、母が朝からの日記を引き継いでいた。
3月3日 (父)午前4時 自宅を出る。部屋氏(特高警察)上野駅まで見送り。
     (母)早朝、元出発す。部屋氏 上野まで送ってくれる。
古澤襄注記=プロレタリア文学運動で特高警察からつけ狙われた古澤元だったから、敗戦直前まで特高警察がわが家に足繁くやってきたのは、監視が続いていると思っていた。
1982年、父と母の遺稿集「びしゃもんだて夜話」を発刊し、郷土の岩手日報が夕刊一面トップで報じてくれた。間もなく岩手県の未知の人から書状を頂戴した。
伊藤猛虎・・・警視庁特高課長として、共産党の伊藤律スパイ事件の真相を知る人物といわれた人の手紙であった。「びしゃもんだて夜話を万感の思いで読んだ」とあって、是非、古澤元の遺児に会いたいので、盛岡に来れる日を教えてほしいと書状にしたためてある。
猛虎氏に会って、古澤元と二人は大正10年(1921)に旧制盛岡中学に入学した同級生だったと知らされた。「盛岡中学時代の古澤元は剣道に打ち込んで、三段の腕前になった筈だ、剣道部主将の古澤君は”盛中のフルタマ”と他校から怖れられていたよ」。古澤元の本名は玉次郎、フルタマの由来を猛虎氏は覚えている。
古澤元は大正15年(1926)に盛岡中学を卒業、仙台の第二高等学校に進学しているが、猛虎氏は家庭の事情から卒業前に警視庁に奉職している。その古澤元が左翼活動で二高を放校となり、「戦旗」に秦巳三男のペンネームで評論や「高知の漁民運動」のようなルポルタージュを書いていることを猛虎氏は知った。
「硬派の剣道部主将と左翼活動家のイメージがどうしても合わない」「転向するまでは、特高警察が尾行したが、転向後はブラックリストから私が外したよ」「それがA級戦犯になった橋本欣五郎の側近ブレーンになっていたから、こんどは特高警察の方から古澤元に近づいたのだよ」
猛虎氏の懐旧談はとどまることを知らない。東条英機首相は東京憲兵隊を意のままに操り、反東条の橋本欣五郎は特高警察から情報を取るという動きだったという。反東条の中野正剛は東京警視庁に逮捕されたが、10月25日に嫌疑不十分で釈放、その後、東京憲兵隊によって拘束され自白させられたという。
10月27日に中野正剛は自宅の書斎で割腹自決した。この情報は特高警察から古澤元に伝えられ、橋本欣五郎に報告した情景を私は目撃している。反東条の石原莞爾・東亜連盟と連絡したり、盟友だった戸川貞雄に電話をしたりしていた。貞雄の長男・戸川猪佐武は、中野正剛の自決は東京憲兵隊によるものとしたが、当時の事情を知る私も同じ見方をとる。
話を遡るとサイパン玉砕の大本営発表は昭和19年7月18日まで秘匿された。同日の父の日記には
7月18日 夕刻 サイパン全員戦死の発表あり。東条下野の報入る。行くべき道は一筋なれば、深き感なし。
7月19日 政変ありて貴顕の往来繁き如し。海軍に於ける米内光政大将の存在、殊に目立つ。比島より寺内、朝鮮より小磯上京す。小磯首班となるべし。夕刻、東条自刃の報入るも、未だ不確実なり。
再び、昭和20年3月の母の日記に戻る。
3月10日 未明、B29・130機が来襲。本所、深川、本郷、浅草、蔵前、千住など下町の大半は灰燼に帰す。この日の罹災民150万、死傷者17万という。
新聞やラジオより情報が速く、詳しいのは特高警察の知らせなのであろう。小磯内閣は橋本欣五郎が首謀者となった「3月事件」のクーデター計画に参画した者が大半を占めている。欣五郎も翼賛議員となって、翼壮本部長に就任した。
しかし海軍大臣に就任した米内光政大将は「小磯内閣では終戦工作は不可能」と距離を置いた。3月事件の残党では終戦工作は出来ないと見極めたのであろう。
父の出征後は、特高警察から部屋氏のほかに一ノ瀬氏が母のところに来ている。
3月17日 一ノ瀬氏に軍公用の切符をとって貰い、身をもって東京を脱出した。最後まで私の世話を焼いてくれた部屋氏、原宿署の渡辺、小平、都筑刑事がいなかったら、おそらく死の東京を脱出することは不可能であったろう。
話は一足飛びにソ連参戦と、降伏した関東軍57万の将兵がシベリア送りとなった”いきさつ”はまだ解明されていない。むしろ「八月十九日の密約説」のように関東軍参謀・瀬島陸軍中佐の関与説が残っている。
■瀬島龍三氏が九月四日、老衰で亡くなった。九十五歳。シベリアに抑留された旧日本兵の家族や遺族たちにとっては、複雑な思いがあるだろう。私もその一人である。瀬島氏は満州で敗戦を迎えている。肩書きは関東軍参謀、陸軍中佐であった。
関東軍の終焉については作戦参謀だった草地貞吾陸軍大佐の「草地貞吾回想録」(芙蓉書房)がある。十一年半のシベリア抑留でスターリンの日本人赤化教育に屈せず、毅然として志操を守った人物。
敗戦後、ソ連極東軍司令官ワシレフスキー元帥と停戦交渉を八月十九日にジャリコーウオ戦闘司令所で行ったが、秦彦三郎中将(総参謀長)に随行したのが瀬島中佐であった。交渉といっても一方的なものであったと草地氏は回顧している。
この八月十九日をめぐって、いわゆる瀬島疑惑が生まれている。「瀬島龍三 参謀の昭和史」(文春文庫)の著者である保阪正康氏は、文庫版のための追記で「瀬島氏への疑問は一点に収斂される」として①大本営参謀として語っておかねばならぬ事実②関東軍参謀としての自らの役割③昭和20年8月19日のソ連側との停戦交渉④東京裁判でのソ連側証人に選ばれた経緯⑤将校の民主化運動を指揮した事実・・・を挙げた。
しかし瀬島氏は、これらについて口をつぐんで語らなかった。一番の疑惑は8月19日の停戦交渉で、関東軍の捕虜をシベリアに送り、使役につかうことを容認したという疑いである。
ソ連側の脅しに屈しなかった草地氏は”反動”の折り紙をつけられて、ソ連の監視兵と日本側の民主化グループから、手厳しい暴力を四十人の仲間と一緒に受けている。
共同通信社社会部編の「沈黙のファイル」(新潮文庫)は「瀬島龍三とは何であったか」の副題がついている。
この中で1954年2月5日に元関東軍参謀・志位正二(陸軍少佐)が「自分はソ連のスパイでした」と警視庁に出頭してきたことが書いてある。ソ連の在日代表部書記官だったユーリー・ラストボロフが米国に亡命、日本におけるソ連のエージェントとして志位ら三十六人の存在が明らかになった。
志位は警視庁の取り調べに対して「米国のデモクラシーというものは、他国民を犠牲にして自国の安全と平和、繁栄を築きあげる利己的なものである。日本の平和と独立のためには、ソ連と協力してソ連・中国と平和関係を結び、米国を日本から追い出すことしかない」と供述している。ソ連から帰国した元高級将校には、志位と同じ考え方をするソ連派がかなりいる。
その一方で反動の折り紙をつけられた草地氏のような元高級将校も数多くいた。瀬島氏はハバロフスクの第十六収容所の21分所に収容されたが、約六百人の団長になって、ソ連当局との交渉役であった。「ある程度ソ連の言うことを聞いて、健康な身体で帰国しよう」と説得していたとの証言がある。
ロシア国防省中央公文書館に一枚の軍事機密暗号電報が保存されてある。発信時は敗戦十二日後の八月二十七日。関東軍から大本営参謀次長・河辺虎四郎宛のもので「原子爆弾保管の件、長崎ヨリ東京ニ持帰リタル不発原子爆弾ヲ速ヤカニソ連大使館内ニ搬入保管シオカレタシ」。起案責任者は瀬島龍三となっている。
長崎に落とされた原爆の不発弾が存在したのか、今もって謎である。明らかなのは瀬島電報がロシア国防省中央公文書館に保存されていることである。これについてソ連軍の元通訳のチタレンコが手記を残している。「瀬島氏の名前は正確には覚えていない。だが彼は明らかにソ連軍司令部に日本から不発の原子爆弾を受け取るよう提案していた」と記していた。
彼は言ったという。「日本を占領するのは米国であろう。米国が原爆を独占したら、日本は植民地として二度と立ち上がれない。原爆がソ連にもあれば、日本は近い将来、大国間でしかるべき地位を占めることができる」と。この「彼」は瀬島氏ではなかった。後に大本営参謀だった朝枝繁春中佐だったと分かった。電文は関東軍作戦主任の瀬島参謀に頼んで打電して貰っていた。
実は不発原子爆弾は存在していなかった。長崎の原爆が投下された時に、米軍は落下傘で高層気象観測装置のラジオゾンデを三個投下していた。これが不発原子爆弾と誤認された。もっともラジオゾンデは進駐した米軍が接収したので、米側の話を信用するしかない。
ソ連抑留から瀬島氏は1956年に帰国した。二年後に伊藤忠商事に入社、その後の活躍は山崎豊子氏の小説「不毛地帯」の主人公・壱岐正中佐として華麗に描かれている。中曽根元首相のブレーンとして土光臨調委員にもなった。
戦後の軌跡が栄光の輝きを持っただけに、これに反発する旧軍人の間には、八月十九日のソ連軍との停戦交渉で、瀬島氏が関東軍の捕虜のシベリア抑留と使役を申し出たという密約説が消えない。(杜父魚ブログ 2007.09.04 Tuesday name : kajikablog)
杜父魚文庫

コメント

タイトルとURLをコピーしました