13562 「集団的自衛権」  西村眞悟

本日八月四日の朝、NHKの「日曜討論」では、「議論本格化、防衛大綱の見直しは?集団的自衛権行使は、政府と専門家が討論!」ということだ。
それをちょっと観た場面で、集団的自衛権に関して、丸顔のヒゲの「専門家」が、「この国の形は、戦後七十年間定まってきたのです。それを憲法解釈で変えようとするべきではなく、憲法改正ですべきです」と言っていた。
馬鹿馬鹿しくて観るのをやめた。時間の無駄だ。また、こういう馬鹿議論を延々と放映することは、国民を愚民とみなしていることであり、NHK、無礼であろう。
 
この問題に関する「討論」は、まず内閣が「集団的自衛権を行使する」と決断して総理大臣がその旨宣言し、その上で、国会で、また、NHKをはじめとするメディアでなすべきである。
その時には、政府の閣僚は、正々堂々と我が国家存立のためには、集団的自衛権を行使しなければならないのだと主張し、反対論があるならそれを論破すればよい。
国防に関しては、こういう明快な前進が必要なのだ。左翼的なことを言っておれば知的で良心的とされる戦後的閉鎖社会(日本の大学)から出てきた者のご高説を延々と聞く必要はない。
但し、政府が、集団的自衛権行使を決断する場合、その従来の定義を訂正し、改めて明確にしなければならないだろう。従来の定義は、「集団的自衛権は持っているが行使できない」という内閣法制局の結論を導くための定義だった。
つまり、従来、集団的自衛権とは、「他国が攻撃を受けている場合に、『自国が攻撃を受けていないにもかかわらず』自衛権を行使する権利」というように政府は説明していた。
これは「行使不能」を説明する為の定義である。何故なら、この定義では、集団的自衛権は、まるで、「関係のないところにちょっかいを出しに行く権利」であるかのような説明ではないか。
 
そうではなく、集団的自衛権とは、「他国に対する攻撃が、『自国に対する攻撃であると判断される場合』に自衛権を行使する権利」である。
そして、この権利こそ、相互に依存しつつ助け合って生きている人間存在を前提にして、家族という集団を成り立たせ国家という共同体を存続させる為に一番必要な権利なのだ。
例えば、父親と母親は、幼い子どもに対する攻撃を自分に対する攻撃として子どもを守ろうとする。そのとき親は、「自分が攻撃を受けていないにもかかわらず」、子どもを守ろうとするのではない。親にとっては、子どもを守ることと自分を守ることは不可分一体なのだ。
この親子の関係からくる防衛のあり方。これは説明するまでもなかろう。人間存在の本能である。そして、この本能が、集団的自衛権の原型である。
政府は、NHKの「討論番組」にノコノコ出て行って「昨日の学者のご高説」を聞くのではなく、速やかに集団的自衛権の定義を改めてその行使を決断し、その上で、堂々と番組に出て国民を説得し国家の将来を語られよ。
それから、「防衛大綱の見直し?」これに関して、一点だけ指摘しておく。
それは、「専守防衛という訳の分からん防衛方針を捨て去るべし!」ということ。この「専守防衛」は、我が国内を「戦場」にする防衛思想である。つまり、敵が我が国に上陸して初めて発動される防衛行動のことを専守防衛という。
馬鹿言え。これは、敵を我が国に誘致する亡国の思想であり防衛ではなく、その反対ではないか。
 
我が国内が「戦場」になったときは、とっくに我が国が崩壊しているときである。つまり、既に防衛できなくなったときである。
専守防衛によれば、昭和二十年八月の時点でいうならば、制空権と制海権がなくなり、東京と大阪が丸焼けになり、広島、長崎に原子爆弾が投下され、いよいよ本土に敵が上陸してくる直前が「防衛」の発動と言うわけだ。
 
こんな防衛思想を放棄せずして、我が国の防衛はない。
仮に有事の際、専守防衛の原則に基づき、はじめから我が国内を戦場として防衛戦争をしようとする軍司令官がおれば、速やかに軍法会議で外患誘致の国家反逆として死刑に処して排除すべきである。
杜父魚文庫

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