刊行が始まった岡田英弘著作集 その歴史学の本質にあるものは?歴史とは物語であり、歴史には「いま」と「むかし」しかない。
<<岡田英弘『岡田英弘著作集(1)歴史とは何か』(藤原書店)>>
これは大変なことなのである。個人全集がでるというのは、いまの出版界では奇跡に近く、いや漱石全集も息切れ、保守論壇で「選集」的なシリーズがでているのは石原慎太郎、渡部昇一の各氏くらいで、三島由紀夫は別格として個人全集は福田恒在氏と西尾幹二氏だけ(通俗作家は除く)。
さて待望の岡田英弘著作集の第一巻を手にとって、思わず引き込まれた。一気に半分ほど読んだところで、朝食のあと昼を抜いていたことに気がついた。
なにしろ岡田氏は満州語から学問の興味がはじまって、満州語のバックに蒙古語があり、その基幹はチベット語、その古典がサンスクリットと順番にマスターしたうえ、米独に留学されているから英語とドイツ語もおとくい、合計十四ヶ国語の達人だから、ゴルゴ13だって吃驚するだろう。
氏はこう言う。「歴史は文学である」。したがって「歴史家はみな文学者でなければならない。歴史を書くと言うことは創作活動なのである」
またこうも言われる。「歴史は過去に起こった事柄の記録ではない。歴史というのは世界を説明する仕方なのである」
「司馬遷の『史記』は、」「正統の観念」で成立しており、「神話の黄帝と天下と現実の武帝の天下とを連結するリンク」。
だから「実際にはシナ世界を統一していなかった夏・殷・周を本紀に列したのだが、これらの都市国家の時代は、まだ漢人というアイデンティティの原始時代」だったのだ。
シナの歴史のゆがみが過大解釈による捏造をもたらした。それがそもそものシナの「歴史」なるものの出発点にあったのだ。
つまり「秦始皇帝の天下統一以前の華北は、生活形態のそれぞれ異なった四つの種族の住地であり、これを東夷(河北、山東、江蘇、安徽の平原の農耕、漁労民)、西じゅう(陝西、甘粛の草原の遊牧民)、南蛮(湖北、四川の山地の焼き畑農耕民)、北荻(山西高原の狩猟民)と呼んだ。この蛮、夷、じゅう、荻の接触する河南に都市が発生した」。
要するに「夏は淮河から北上した東夷」、「殷は山西高原から南下した北荻」、そして「周は陝西から東進した西じゅう」、これらが統合して漢人となり、彼らが住み世界がシナである、と説明されるとわかりやすいのだが、共通するのは「漢字、都市、皇帝」である。
したがって岡田史学の重要な予見的世界観とは、「シナ文明」は先が見えていて、「日本文明に完全に同化されるより道はあるまい」と断定的に予測されるところにある。いったい、そうした背景にあるものは何なのだろう?
つまりシナの歴史とは皇帝であり、固有の歴史文化を「1985年の日清戦争の敗戦を契機として、当時、シナの領土を一部としていた満州人の清帝国は、全面的な日本化に踏み切った」のである。
これによって「歴史を含むシナ文明の否認を意味した」
うーん。話せば長くなるので、要領よく説明すると、現在世界にのこる文明はEUが継承した地中海文明と、独自の日本文明だけである。インドには歴史がない、とも断言する。
かくして岡田氏は、「これに対抗するのが、アメリカ文明とロシア文明という二つの、歴史のない文明である。歴史は、つきつめればイデオロギーの一種であり、しかも人類の発明したもっとも強力なイデオロギーである。
EUがアメリカ文明に同化されることなく、ロシア文明のマルクシズムに勝つことができた最大の原因は、地中海文明の歴史文化という力強な武器をもち、それを有効に使ったからである。もう一つの歴史のある文明である日本文明は、自分の歴史文化の混乱を、どう解決することになるのであろうか」。
すなわち日本にとってシナ文明は、問題ではないというわけだ。
杜父魚文庫
13618 書評『岡田英弘著作集(1)歴史とは何か』 宮崎正弘

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