東京では七月が「お盆」なのだが、推古天皇の時代に始まった先祖や亡くなった人たちの霊を祀るお盆の行事は八月十三日から十六日までの四日間だとされている。地方では八月の「お盆」が主流。
ことしのわが家には東大生になった孫が両親と一緒に八月十三日から三日間里帰りをしてくれる。炎暑の横浜よりは茨城県のわが家の方が二度から三度は低い。客間のクーラーは外してしまったが、居間のクーラーを全開にして仕切を外しておこうと孫一家を迎える準備をしている。
今日は茨城名産のメロンや桃、梨それにビールやアイスクリームなどをジジは買い出しに出掛けねばならぬ。これも楽しみ。地方で都会に行っている子どもや孫たちを「お盆」で迎えるジジ・ババの楽しみがよく分かる。日本の伝統行事はまさに日本の文化なのだから大切にして後の世代に伝えたい。
ことしは昨年に菩提寺に建立した古澤家累代の墓の初めての「お盆」にもなる。一足先に七月、岩手県の菩提寺に行って供養をしてきた。昨日は和尚から八月の「お盆」は、墓の前で供養の読経をしておくから・・・と電話がきた。永代供養をお願いしてあるので有り難いことである。
だが郷里に菩提寺を持ち、先祖代々の墓を持つ人たちは限られている。戦後、核家族化が広く定着したのだから、菩提寺を持ち、先祖代々の墓を持つという”形式”にこだわるのは現実的ではない。
先祖や亡くなった人たちの霊を祀るのは”人の心”の問題であろう。戦前の修身教育のような”押しつけ”で律するのは間違いでであり永続きしない。若い時には先祖や亡くなった人たちのことを考えることがなくても、年齢を重ねて来し方、行く末を考える時期は必ずある。
形式は二の次にして、心の中で先祖に思いを致すことで十分ではないか。一年のうちで八月は”鎮魂の月”というのは、そういうことではないか。10日の杜父魚ブログで昨年七月末に書いた「先祖や亡き人たちの霊に祈る”お盆”の行事」が、読まれた3329本の記事中七位につけた。あらためて再掲してみた。
<「お盆」の風習は、推古天皇の時代に行事が始まったといわれる。先祖や亡くなった人たちの霊を祀る行事で八月十三日から十六日までの四日間、墓参りをしたり、仏壇に供え物をして祈りを捧げる。
私の父と母の墓がある川崎市の緑が丘霊園は、この期間中、墓参りのマイカーが数珠つなぎになって大混雑。戦後、核家族化になって東京周辺は墓を求める人たちが増えて、霊園があちこちに作られた。緑が丘霊園の使用料は百五十万円、管理料は年額四千二百円。それに春、秋の清掃料は約七千円。墓を持つのも容易ではない。
だが、少子高齢化によって墓を継ぐ子が絶えてしまうと、管理料や清掃料を払う者がいなくなるから、無縁仏になってしまう。緑が丘霊園にもこうした墓跡が毎年かなり出る。整地してまた管理者である川崎市が新規募集する仕組みとなっている。今年度の新規募集は面積4平方メートルが157区画、6平方メートルが55区画。何とも死後の世界も世知辛い。
地方では先祖代々の墓があるから東京周辺とは違うが、やはり少子高齢化の波が押し寄せている。それでも古い寺があるからお盆になると僧侶が檀家のところに行ってお経をあげてくれる。
お盆の正式な呼び名は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」。各家庭では13日の夕方に迎え火を焚き、先祖の霊を迎える。キュウリとナスビに割り箸を刺して馬と牛に見立てた精霊馬(しょうりょううま)を飾る風習は、東京ではみられなくなったが、地方には残っている。
私の家も娘二人が他家に嫁いでいるので、いずれは無縁仏になる運命。それも仕方あるまいと達観していたが、親友の菩提寺和尚が寺の墓地に古沢家の墓を移転することを勧めてくれた。古沢家の先祖の墓は、村の共同墓地と雫石町の広養寺にある。緑が丘霊園と合わせれば三つの墓地に先祖の霊が眠っているので、戒名を刻んだ墓碑銘を建立して、三つの墓地をひとつにして菩提寺が永代供養で守ってくれることになった。
古沢元・まき子夫婦作家の文学碑と三百年の歴史を刻む古沢家の墓碑銘がひとつのものになって、菩提寺に残れば私のこの世における最後のつとめが終わる。古沢家の最古の墓は、江戸時代の延享五年のものがある。雫石から沢内村に移村してきた証である。小さな墓石に刻まれた戒名は読み取れない。
菩提寺には寺が創建された江戸時代からの檀家の戒名を記した過去帳が残っている。厖大な量になるので、それを一つひとつ和尚と二人で二日がかりで調べた。それを村の共同墓地に残る墓の戒名と照らし合わせた。古文書の記録とも照らし合わせるのだから、容易な仕事ではない。
幸いなことに仕事が完成したので、お盆明けから墓の移転と墓碑銘の建立に着手する。私ごとに過ぎないが、参考までに確定した過去帳を掲載してみた。
墓碑銘不詳 延享五年没 (墓碑あり)
玄質道了信士 安永二年四月三日没 (初代古沢屋十兵衛 雫石生まれ)
東林旭光禅定門 安永八年正月二十二日没 (二代古沢屋十兵衛)
梅顔妙香禅定尼 天明六年二月二十六日没 (墓碑あり)
菊寿禅定尼 寛政二年九月二十九日没 (墓碑あり)
普歓禅定尼 寛政八年十一月一日没 (墓碑あり)
秋月妙光信女 文化五年九月二十三日没 (墓碑あり)
延歓保寿信女 文化六年十月十七日没 (三代古沢屋善兵衛の母・墓碑あり)
観相自念禅男 文政六年七月三日没
了心妙悟信女 天保五年十月二十五日没
善心了喜信士 嘉永二年七月一日没 (三代古沢屋善兵衛 村馬肝入)
善覚妙仙大姉 安政二年八月五日没 (四代古沢屋善蔵の妻)
全久了喜居士 万延元年八月九日没 (四代古沢屋善蔵 御境・御山古人)(墓碑あり・78歳)
寿山妙永清大姉 文久二年十月十七日没 (六代古沢勇治の妻・21歳・五代古沢善治の長女・墓碑あり)
是光院寿山妙永清大姉 文久三年十月六日没 (墓碑あり)
喜徳院教雲良海居士 明治十年七月四日没 (五代古沢善治 御境・御山古人・65歳・四代古沢屋善蔵の長男・墓碑あり)
教海清雲大姉 明治十一年四月十一日没 (五代古沢善治妻・クマ・62歳・湯田村佐々木市右衛門の伯母・)
是真院唯参妙念清大姉 明治四十年七月二十二日没 (六代古沢勇治の後妻・トメ・64歳・大野村高橋清左衛門の妹・墓碑あり)
宜昌院道参恵契童子 明治四十四年十二月十日没 (八代古沢行道の長男・道太郎・7歳・墓碑あり)
凌霜院行山機道清居士 大正元年十一月三日没 (八代古沢行道・32歳・七代古沢善五郎の長男・墓碑あり)
是真院岫参道雲清居士 大正七年五月一日没 (六代古沢勇治・81歳・養嗣子・墓碑あり)
快光院普参妙良禅大姉 大正十一年九月十三日没 (七代古沢善五郎の妻・マサ・66歳・六代古沢勇治長女)
興善院快参寿翁禅居士 昭和十一年十二月二十六日没 (七代古沢善五郎・沢内村議・88歳・養嗣子)
俊峰院無徹玉量居士 昭和二十一年五月三日没 (九代古沢玉次郎 作家・古沢元・39歳・八代古沢行道の次男・墓碑あり)
郁潤院真室妙喜大姉 昭和五十七年二月六日没 (作家・九代古沢玉次郎妻・真喜・墓碑あり)(杜父魚ブログ 2012.07.30 Monday name : kajikablog)
杜父魚文庫
13626 先祖を思うのは”心”の文化なのだろう 古澤襄

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