13637 日本のゴーゴリ・新田潤  古澤襄

きょうは18歳になった孫が母親に連れられて里帰りしてくると思うと未明に目が覚めた。書斎の窓を開け放し、網戸にすると冷たい風が流れ込んでくる。午前3時ごろの、ほんのひとときだが近くの森や林を抜けてくる空気なのでクーラーよりも気持ちがいい。
18歳の頃の自分は何をしていたか?疎開先の信州・上田から東京の旧制中学に転校して、最初に行ったのは阿佐ヶ谷にいた作家・新田潤(にった じゅん、1904年9月18日 – 1978年5月14日)のところだった。
新田潤・・・信州・上田の生まれで本名・半田祐一、上田中学から旧制浦和高校を経て東京帝国大学英文科卒。在学中から作家・高見順と交友を結び、同人雑誌「日暦」で小説を書いた。1936年に人民社から出した「片意地な街」が出世作だと思う。
父・古澤元も「日暦」に「びしゃもんだて夜話」を連載していたが、母が上田の出身だったので、新田潤との交友が始まった。新田潤が「いい小説を書いている」と東大生だった田宮虎彦を連れてきた。田宮虎彦は東大を出て、都新聞(現在に東京新聞)に就職している。田宮虎彦も「日暦」の同人。
そんな縁があったので、上京した私は新田潤のところを訪ねた。上田中学時代に私は「幸(さいわい)」という名の同人雑誌を主宰し、”小説もどき”を書いていたが、文章も下手くそ、小説のテーマも定まらない・・・悩んだ末の新田潤頼りとなった。
黙って私の悩みを聞いていた新田潤は「君のお父さんはいい小説を書いていた。その小説を模写しなさい」と一言。それで「びしゃもんだて夜話」を何度も模写することになった。自分の文章に自信を持てなかった私だが、父の小説を模写しているうちに私なりの文章が定まった感じがする。
「小説のテーマが定まらない」という悩みには「それは社会人としての経験不足だよ」と一笑に付せられた。
いまになって思うのだが、当時の新田潤も小説道の悩みを抱えていた。戦後、新田潤は雨後の筍のように増殖したカストリ雑誌に小説を書き飛ばし、流行作家となっていたが、友人の高見順はそんな新田潤を批判して気遣っていた。「新田潤はカストリ雑誌の流行作家ではない。ほんとうの小説を書け」と。
「日暦」、「人民文庫」を通して新田潤の小説は”日本のゴーゴリ”という評価を得ている。
ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ。ウクライナ生まれのロシアの小説家だが、。『ディカーニカ近郷夜話』、『ミルゴロド』、『検察官』、『外套』、『死せる魂』などの作品で戦前の日本の文壇にも大きな影響を与えている。
ウイキペデイアに<ゴーゴリは中編小説(ポーヴェスチ、повесть)で文名はいよいよ高まる。1836年の戯曲『検察官』によってその名は広く一般に知られるところとなるが、その皮肉な調子は非難の対象となり、それを避けてゴーゴリはローマへ発った。
途中パリでプーシキンの訃報を知り、衝撃を受ける(1837年)。これ以降彼は、教化と予言とによってロシア民衆を覚醒させ、キリスト教的な理想社会へと教え導くことこそが自己の使命であると痛感するようになる。>とある。
ファシズムの嵐が吹きすさぶ戦前の左翼文壇で、ゴーゴリがロシア・リアリズム文学の祖と目され「人民文庫」の作家たちに与えた影響は大きい。
思えば、ゴーゴリの作品に流れる地方地主たちの安逸な日常や、ペテルブルクの小役人・下層階級の人々の日々の生活の描写は社会批判として武田麟太郎の市井ものや、高見順のドロドロとした反吐を吐き出す戦前小説と共通する流れとみることが出来る。
ドストエフスキーをはじめその後のロシア文学にゴーゴリが与えた影響はきわめて大きい。日本文学にも強い影響を与えた。芥川龍之介の作品『芋粥』は導入部分が、ゴーゴリの『外套』に酷似している。ほかに、宇野浩二や高見順の饒舌体もゴーゴリの影響とされた。(ウイキペデイア)
杜父魚文庫

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