あの時代、台湾独立運動には希望と危殆が同居していた。ブルドーザのごとく豪快、しかし磊落。民主化の影で活躍した男がいた。
<<宗像隆幸ほか『台湾独立建国運動の指導者 黄昭堂』(自由社)>>
涙なくして読み切れない本である。
日本へ苦労して留学し、生活苦もそっちのけで台湾独立のために機関誌を創刊し、資金をあつめ、多くの妨害に果敢に立ち向かって八面六臂、そのために強制送還された仲間もいた。台湾で「自動車事故」で死んだ仲間もでた。蒋介石独裁時代の台湾特務は残忍だった。
ひたむきに純粋に台湾は主権国家であり、中国の一部ではない、独立するべきだと訴え続けた「台湾青年」には多くの読者がいた。
とにかく三十数年間、かれらは故郷台湾に帰ることが出来ず、親の死に目にもあえなかった。
許世偕、金美齢、周英明、伊藤潔・・・。名前をあげれば際限がない。日本人の編集協力者もたくさんいたが、そのなかに鳥居民がいた事実を発見する。
こうした台湾独立の闘士のなかで、ひときわ指導力を発揮した黄昭堂(昭和医大元教授)が、自ら綴った自伝風の読み物を、親友だった宗像隆幸らが翻訳・編集した。
彼らの苦労は多くの心ある日本人は知っているが、本書には黄昭堂自らが語った人生の履歴、その戦闘録、戦いの軌跡が淡々と述べられている。
むろん、評者(宮崎)は黄昭堂・台湾独立建国連盟前主席の人生をよく知っているつもりだったが、じつは何も知らなかった。
台湾へ行くと必ず氏のオフィスに立ち寄った。御土産は日本の雑誌、単行本だった。いつもご馳走になった。こちらが勘定をもつといっても断固として彼が支払った。台南で許文龍の自宅を訪問したときも、黄はわざわざ台北から飛行機で飛んできて同席した。ミッキー安川とラジオ番組の収録に行ったときは、北京ダックの老舗に案内してくれた。このときばかりは当方が支払った。酒が強かった。
要するに客人に対して、台湾人特有のホスピタリティを体中で発揮した人だった。しゃべり出すと停まらない性格だが、その理路整然とした論理の組み立て方に舌を巻いたことも屡々だった。
日本に於ける初期(1960年代から70年代初頭)の台湾独立運動は地下運動であり、機密の多い秘密結社的運動だったから、名前と存在だけを知っていても誰がやっているかは知らなかった。風を切るように颯爽と表舞台に現れたのは蒋介石が死んで蒋経国が登場し、NYのプラザホテル玄関での暗殺未遂事件に遭遇して以後、本省人の李登輝を副総統として指名し、蒋経国が民主化の波を示した頃だった。
アメリカの圧力も大きな要素となった。国連から脱退し、国際社会での孤立をつよめていた台湾は大きな曲がり角にたった。強圧政治ではやっていけない、そのためには過去に敵対してきた人材を呼び込まなければいけない。
最初に国民党が白羽の矢を立てるのは丘永漢だった。著名な経済評論家でもある丘は初期の独立運動に関わった経緯があり、丘は警戒して『週刊新潮』の記者を同行した。丘が台北へいくと大歓待された。直後に評者は藤島泰輔と自宅へ招かれ、その話を聞いた。丘は突如として台湾に工業団地を造り、日本語学校をはじめ、書店を開き、この安心感から、多くの日本企業も台湾へ進出した。
その後、日本に帰化した丘は参議院に立候補したこともあったが、無所属で、あれは要するに日本国籍を取ったという自己宣伝であったのかも知れない。
▼台湾独立運動の熱気が沸騰した1996年と2000年の総統選挙
そして台湾の国民党独裁、強権政治は終わりを迎え、台湾では党外雑誌が道ばたに公然と売られるようになった。
獄中十年、十八年という独立運動の闘士たちが次々と釈放され、民進党が結成され、台湾政治は燃えていた。台湾独立のカリスマと言われた膨明敏も96年の総統選挙に立候補した。このときは李登輝が圧勝した。
あの興奮と大騒ぎと人々の希望を現場にいて体得した。爾後、選挙ごとに取材に行く。
宗像隆幸の『台湾独立運動私記』(文藝春秋)には往時の活躍がヴィヴィッドに分かる場面があり、ついで許世偕(後の駐日大使)金美齢や、多くの人々も、関与した事件を回想する形でいくつかを上梓した。
みなが日本人より筆が立つのにも驚いたが、嘗て台湾独立運動の中枢にいる活動家、スポンサーと考えられてきた人たちも、途中で変節した人々も、或いは生活苦からの挫折組も多く、それらの経緯も黄昭堂は淡々と、たとえば辜寛敏ら実名をあげて書き残した。
驚いたのは1961年に李登輝が来日したおり、黄昭堂らは秘かに李登輝とあっていたことだ。
黄昭堂夫人が急逝されたとき、日本で葬送のミサが杉並の教会で行われた。雨に降られた。そのとき衛藤瀋吉(東大名誉教授)が臨席されていたので、「え、なぜ?」と思った。もちろん顔見知りではあるけれども蒋介石批判の関連で衛藤が岸信介を批判したことに納得できなかった思い出があったからだ。
もとより、衛藤教授が陰で台湾独立運動を支援されていたことは知っていたが、なんと本書を通じて分かったことは黄昭堂の在日ヴィザが切れて「難民証明」を出して貰ったときの保証人でもあり、資金援助もされていた。
そして1969年に博士論文を完成させると、その出版を陰で支援し実現に漕ぎ着けたのは衛藤教授の尽力があったばかりか、教職の斡旋も彼が影で動いたという。そういえば、許世偕の滞在延長を裏で配慮したのは我妻栄教授だった。我妻はだまって岸晋介に電話したのだ。明治大学にはカリスマ的な「台湾青年」創始者の王育?がいたが、同大学には宮崎繁樹教授も陰の支援者だった。
黄が1959年四月に東京大学に留学した折の主任教授は江口朴郎だった。かれは左翼理論家だったが、黄は「誠実で風格ある人だった」と回想するのである。また金美齢が仲間に入りたいとやってきたとき、黄は「特務の回し者」と誤解したという逸話も率直に語られる。いまとなっては笑い話。
その金美齢が「黄昭堂は、この世の中でたった一人こわい存在だった」と言う。
運動はときに過激化し、黄は仲間数名とともに逮捕拘留され、29日間も警視庁監房に入れられるという苦い経験もした。特務のスパイを刺した事件で、その「監房の壁には唐牛健太郎のサインがあった」。
65年に判決がおり、懲役一年・執行猶予だった。
独立運動のカリスマ膨明敏教授が、日本人のパスポートに写真を貼り替え、特務の監視下を抜け出してなんとかスエーデンに亡命するという「活劇」も宗像とその友人が義侠心から引き受け、この脱出劇は世界のニュースとなった。
この詳細は宗像隆幸がすでに『台湾独立運動私記』(文藝春秋)に書いたが、評者は、このときのことを膨明敏自身からも聞いたことがある。
2011年11月、黄は急逝した。
テレビニュースでそれを知った李登輝は「しばらくの間、わたしはこの目の前に現れた事実をどうしても信じることが出来なかった。そして突然、胸を刺すような痛みが襲った。『神よ、私に病の苦痛を与えたばかりなのに、どうして志を同じくする友をうしなうという打撃を与えられるのか』と天を仰いで問いかけずにはいられなかった」とコメントを出した。
杜父魚文庫あの時代、台湾独立運動には希望と危殆が同居していた。ブルドーザのごとく豪快、しかし磊落。民主化の影で活躍した男がいた。
<<宗像隆幸ほか『台湾独立建国運動の指導者 黄昭堂』(自由社)>>
涙なくして読み切れない本である。
日本へ苦労して留学し、生活苦もそっちのけで台湾独立のために機関誌を創刊し、資金をあつめ、多くの妨害に果敢に立ち向かって八面六臂、そのために強制送還された仲間もいた。台湾で「自動車事故」で死んだ仲間もでた。蒋介石独裁時代の台湾特務は残忍だった。
ひたむきに純粋に台湾は主権国家であり、中国の一部ではない、独立するべきだと訴え続けた「台湾青年」には多くの読者がいた。
とにかく三十数年間、かれらは故郷台湾に帰ることが出来ず、親の死に目にもあえなかった。
許世偕、金美齢、周英明、伊藤潔・・・。名前をあげれば際限がない。日本人の編集協力者もたくさんいたが、そのなかに鳥居民がいた事実を発見する。
こうした台湾独立の闘士のなかで、ひときわ指導力を発揮した黄昭堂(昭和医大元教授)が、自ら綴った自伝風の読み物を、親友だった宗像隆幸らが翻訳・編集した。
彼らの苦労は多くの心ある日本人は知っているが、本書には黄昭堂自らが語った人生の履歴、その戦闘録、戦いの軌跡が淡々と述べられている。
むろん、評者(宮崎)は黄昭堂・台湾独立建国連盟前主席の人生をよく知っているつもりだったが、じつは何も知らなかった。
台湾へ行くと必ず氏のオフィスに立ち寄った。御土産は日本の雑誌、単行本だった。いつもご馳走になった。こちらが勘定をもつといっても断固として彼が支払った。台南で許文龍の自宅を訪問したときも、黄はわざわざ台北から飛行機で飛んできて同席した。ミッキー安川とラジオ番組の収録に行ったときは、北京ダックの老舗に案内してくれた。このときばかりは当方が支払った。酒が強かった。
要するに客人に対して、台湾人特有のホスピタリティを体中で発揮した人だった。しゃべり出すと停まらない性格だが、その理路整然とした論理の組み立て方に舌を巻いたことも屡々だった。
日本に於ける初期(1960年代から70年代初頭)の台湾独立運動は地下運動であり、機密の多い秘密結社的運動だったから、名前と存在だけを知っていても誰がやっているかは知らなかった。風を切るように颯爽と表舞台に現れたのは蒋介石が死んで蒋経国が登場し、NYのプラザホテル玄関での暗殺未遂事件に遭遇して以後、本省人の李登輝を副総統として指名し、蒋経国が民主化の波を示した頃だった。
アメリカの圧力も大きな要素となった。国連から脱退し、国際社会での孤立をつよめていた台湾は大きな曲がり角にたった。強圧政治ではやっていけない、そのためには過去に敵対してきた人材を呼び込まなければいけない。
最初に国民党が白羽の矢を立てるのは丘永漢だった。著名な経済評論家でもある丘は初期の独立運動に関わった経緯があり、丘は警戒して『週刊新潮』の記者を同行した。丘が台北へいくと大歓待された。直後に評者は藤島泰輔と自宅へ招かれ、その話を聞いた。丘は突如として台湾に工業団地を造り、日本語学校をはじめ、書店を開き、この安心感から、多くの日本企業も台湾へ進出した。
その後、日本に帰化した丘は参議院に立候補したこともあったが、無所属で、あれは要するに日本国籍を取ったという自己宣伝であったのかも知れない。
▼台湾独立運動の熱気が沸騰した1996年と2000年の総統選挙
そして台湾の国民党独裁、強権政治は終わりを迎え、台湾では党外雑誌が道ばたに公然と売られるようになった。
獄中十年、十八年という独立運動の闘士たちが次々と釈放され、民進党が結成され、台湾政治は燃えていた。台湾独立のカリスマと言われた膨明敏も96年の総統選挙に立候補した。このときは李登輝が圧勝した。
あの興奮と大騒ぎと人々の希望を現場にいて体得した。爾後、選挙ごとに取材に行く。
宗像隆幸の『台湾独立運動私記』(文藝春秋)には往時の活躍がヴィヴィッドに分かる場面があり、ついで許世偕(後の駐日大使)金美齢や、多くの人々も、関与した事件を回想する形でいくつかを上梓した。
みなが日本人より筆が立つのにも驚いたが、嘗て台湾独立運動の中枢にいる活動家、スポンサーと考えられてきた人たちも、途中で変節した人々も、或いは生活苦からの挫折組も多く、それらの経緯も黄昭堂は淡々と、たとえば辜寛敏ら実名をあげて書き残した。
驚いたのは1961年に李登輝が来日したおり、黄昭堂らは秘かに李登輝とあっていたことだ。
黄昭堂夫人が急逝されたとき、日本で葬送のミサが杉並の教会で行われた。雨に降られた。そのとき衛藤瀋吉(東大名誉教授)が臨席されていたので、「え、なぜ?」と思った。もちろん顔見知りではあるけれども蒋介石批判の関連で衛藤が岸信介を批判したことに納得できなかった思い出があったからだ。
もとより、衛藤教授が陰で台湾独立運動を支援されていたことは知っていたが、なんと本書を通じて分かったことは黄昭堂の在日ヴィザが切れて「難民証明」を出して貰ったときの保証人でもあり、資金援助もされていた。
そして1969年に博士論文を完成させると、その出版を陰で支援し実現に漕ぎ着けたのは衛藤教授の尽力があったばかりか、教職の斡旋も彼が影で動いたという。そういえば、許世偕の滞在延長を裏で配慮したのは我妻栄教授だった。我妻はだまって岸晋介に電話したのだ。明治大学にはカリスマ的な「台湾青年」創始者の王育?がいたが、同大学には宮崎繁樹教授も陰の支援者だった。
黄が1959年四月に東京大学に留学した折の主任教授は江口朴郎だった。かれは左翼理論家だったが、黄は「誠実で風格ある人だった」と回想するのである。また金美齢が仲間に入りたいとやってきたとき、黄は「特務の回し者」と誤解したという逸話も率直に語られる。いまとなっては笑い話。
その金美齢が「黄昭堂は、この世の中でたった一人こわい存在だった」と言う。
運動はときに過激化し、黄は仲間数名とともに逮捕拘留され、29日間も警視庁監房に入れられるという苦い経験もした。特務のスパイを刺した事件で、その「監房の壁には唐牛健太郎のサインがあった」。
65年に判決がおり、懲役一年・執行猶予だった。
独立運動のカリスマ膨明敏教授が、日本人のパスポートに写真を貼り替え、特務の監視下を抜け出してなんとかスエーデンに亡命するという「活劇」も宗像とその友人が義侠心から引き受け、この脱出劇は世界のニュースとなった。
この詳細は宗像隆幸がすでに『台湾独立運動私記』(文藝春秋)に書いたが、評者は、このときのことを膨明敏自身からも聞いたことがある。
2011年11月、黄は急逝した。
テレビニュースでそれを知った李登輝は「しばらくの間、わたしはこの目の前に現れた事実をどうしても信じることが出来なかった。そして突然、胸を刺すような痛みが襲った。『神よ、私に病の苦痛を与えたばかりなのに、どうして志を同じくする友をうしなうという打撃を与えられるのか』と天を仰いで問いかけずにはいられなかった」とコメントを出した。
杜父魚文庫
13670 書評『台湾独立建国運動の指導者 黄昭堂』 宮崎正弘

コメント
惨めだ
かつて蒋介石の代理人となって日本の保守陣営に生息していた評者が
いまや踵を返して台湾独立運動家たちに媚びを売るような評論文を書いているのを見ると
しかし文中にそこはかとなく現れる邱永漢や藤島泰輔とのエピソード、
蒋介石国民党のシンパであったことをそこはかとなほのめかしている