私の父方のルーツは12年間の歳月をかけて解明したが、信州の母方のルーツはまだ解明できていない。三年前の夏、次女を連れて千曲市の市役所を訪れたのだが、「明治時代に上山田の大地主だった山崎家のことを知りたい」と無理な注文をした。だが、親切な女性職員が雲を掴むような話を調べてくれた。
「それなら千曲市上山田町の新山地内にある”桔梗寺”が古いお寺ですから、そこで調べたら・・・」と言ってくれた。
桔梗の寺・・・信州七草寺霊場のひとつで天正三年(1575)に真言宗の僧祐昌庵主によって創建され、慶長年間に寺号を「見性」に改めた曹洞宗の古刹。四百五十年近い歴史を刻んだお寺である。
この時は調査が不発に終わったが、思い切って古刹・見性寺に電話をしてみた。大黒さんが出てきて「新山地内には山崎姓が多いのですが、名前は分かりますか」と言う。母の従兄に当たる善兵衛さんの名前を告げたら「ああ、それなら漆原の山崎家です。檀家総代をして頂いた旧家です」。
ルーツ探しは、こんな偶然から糸がほぐれてくる。父方のルーツ探しのきっかけは父の小説「びしゃもんだて夜話」から、小説と事実の解明から始まった。
母方のルーツ探しは母の小説「碧き湖は彼方」の一節から始まった。私にとって実の祖父は、この上山田の旧家・山崎家から上田の木村家の一人娘・静司のところに婿入りしてきた。明治四十三年の話である。
しかし祖父は大酒飲みだったので、二年で離縁となっている。だから母も実父の顔を知らない。
<それは(実践女子大の英文科の)予科の一年の夏休みだった。杏子は、レポートを口実に、はじめて一人で、十日間をこの温泉宿ですごした。それを知った老女が、どうしても杏子に逢いたいと言って、車を迎えによこしたのだ。>小説「碧き湖は彼方」の一節である。
母が十八歳の時にすごした温泉宿はどこなのか?。山崎家の”ご隠居様”、母の小説に出てくる”老女”とは誰なのか?。三年前には雲を掴む話だったのが、いまはかなり解明されている。
この二十九日に私は信州に一人旅に出る。私のブログを読んだ山崎家の当主・善彦さんが雲を掴む話の謎を解いてくれた。善彦さんは私と血が繋がる再従兄弟。この一年余りはメールでのやりとりだったが、初めて再従兄弟が膝を交えて話し合うことになった。
そのうえ、私が泊まる宿は母が十八歳の時にすごした温泉宿・荻原館を予約して戴いてある。胸が躍る思いで来週の信州旅行を待ちこがれている。三年前の杜父魚ブログの記事を再掲してみた。
<「直指人心 見性成仏」の見性寺 古沢襄>
骨髄腫で余命三年と告知されてから七年が経つ。われながらしぶとく生きているという思いがするが、それだけ先の寿命が短くなっているのは否めない。不思議なもので先の寿命が短いとなると一日を生きるのが大切になる。あれをしておきたい、これもしなくてはならぬと健康な時よりも忙しく走り回る日々が続いている。
とはいえ、一人では好きな旅をすることが出来なくなった。二人の娘のどちらかが旅の介添えについてきてくれる。40歳台を迎えた二人の娘は家庭を持っているが、亭主殿たちは妻の実家の父親の我儘を許してくれている。それどころか実家に揃ってやってきて、晩酌に付き合ってくれている。
今年は例年になく体調がいい。6月は作家の高橋克彦さんと公開の対談講演会をすることになったが、三泊四日間の東北旅行に介添えなしで一人で出掛けた。無事に旅行を終えて気が緩んだのであろう。上野駅で常磐線のホームに行く下り階段で転落して大怪我をしてしまった。頭を打ち、左腕に激痛が走って、眼鏡が飛んで血だらけになる醜態を演じてしまった。
いよいよ年貢の納め時がきたと階段下のホームで倒れていたら、孫のような若い娘さんが抱き起こしてくれた。何人かの人が駆け寄ってくれてくれている。荒んだ世の中だと考えてきたが、日本は捨てたものではないと若い娘さんが出してくれた濡れたテイシュで顔の血を拭ってお礼を言った。
それから一ヶ月、病院の整形外科通いだったが、傷が癒えるとまたぞろ信州旅行に出掛けた。どの道、先の寿命が短いと観念しているので、生きている中にやることはやっておきたいと開き直っている。その強気が私の寿命を延ばしているのかもしれない。
今度は次女が介添えに付いてきてくれた。小さな会社の経営者だから娘の都合に合わせての信州旅行になったが、思った以上の収穫があった調査旅行になった。その夜は上田市の温泉ホテル「祥園」で父娘ふたりだけの祝宴となったが、四合ビンの冷やの地酒を二本飲んだ。次女も生ビールの大ジョッキを二杯。仕上げに二人でワインを飲んで、お開き。
翌日、帰ってきたが体調がすこぶる良い。一泊二日の旅行だったので、調査がすべて出来たわけでない。昨日は思い切って上山田町新山にある古刹・見性寺に電話をしてみた。
私の母方の祖父は、この上山田から上田の旧家の一人娘のところに婿入りしてきた。明治四十三年の話である。しかし大酒飲みだったので、二年で離縁となっている。一人娘の祖母との間に生まれたのが母。その祖父の消息を探る旅だった。千曲市役所の戸籍係に雲を掴むような調査を汗をかきながらお願いしたら、祖父は離縁後に京都に行って、その地で昭和九年に没していた。
それなら祖父の墓は京都にあるのではないか。しかし母・真喜は実践女子大の英文科を卒業して間もなく上山田にある実父の墓を詣でたと小説「碧き湖」に書いている。小説はフィクションなのだろうか。謎解きは終わっていない。
いずれにしても祖父の実家の菩提寺を探し当てるしかないと、次女との祝宴で語り合った。千曲市役所の調査で祖父の実家が千曲市上山田町の新山地内にあることが分かった。後は新聞記者のカンである。新山地内にあるお寺をグーグルの航空地図で探して見当をつけた。
明治時代には上山田村の大地主だったという亡母の証言を手がかりに一番可能性がある古刹・見性寺に思い切って電話をしてみた。「新山地内には山崎姓が多いのですが、名前は分かりますか」と電話に出た人は、初老を思わせる丁寧な応対をしてくれた女性。名前を告げると「ああ、それなら漆原の山崎家です。檀家総代をして頂いた旧家です」。案ずるは生むに易し、謎解きが一気にほぐれた。
それを上田市にいる従弟に知らせたら「直指人心 見性成仏(じきしにんしん けんしょうじょうぶつ)の見性寺です」と教えてくれた。「一点山玉泉寺物語」という寺史を書いた私だが、見性寺の由来は知らないできた。
あらためて勉強してみると「直指人心 見性成仏」は「禅」の特性を表わす代表的な語だという。座禅を組んだこともなく、菩提寺の広間で昼寝するしか能がない怠け者の私だから、親友の全英和尚もあえて教えてくれなかったのだろう。
「直指」とは、直ちに指すこと。文字、言葉などの他の方法によらず、直接的に指し示すことをいい、「人心」とは、感情的な「心」ではなく、自分の心の奥底に存在する、仏になる可能性ともいうべき本心・本性・仏心・仏性といわれるものだという。
「見性」の”見”とは、ただ物を対象的に見るのではなく、対象そのものになり切る、一体、一枚になること。”性”とは、直指人心、すなわち、仏心仏性を意味する。
「成仏」とは、世間でいう死ぬことではない。仏陀(覚者)になること、覚った人間になることで「見性成仏」は、すなわち、自分の奥底に存在する仏心仏性になり切って、真実の人間になることだという。あらためて気がついたのだが、全国に見性寺というお寺がかなりある。
有り難いことには、文字も、言葉も、経験も、祖師も、坐禅も、すべて覚者になるためには不必要だ! 自分の心に向かって究める以外に法はない、と教えている。怠け者の私にとって、まさに天の声。秋になったら、上山田の見性寺を訪れようと心に決めている。(杜父魚ブログ 2010.08.05 Thursday name : kajikablog )
杜父魚文庫
13730 母方のルーツを求めての信州への旅 古澤襄
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