日本から外国への発信の必要性が語られています。その発信に関しての私の見解表明を紹介します。テーマは「日本のナショナリズム」です。
■アメリカ学者たちへの語りかけ
日本からアメリカに向けての一定メッセージの発信となれば、まず新聞やテレビ、ラジオというマスメディアに視点を合わせることが効率上、第一の方法であろう。こちらの思考や心情、そして訴えがこちらの言葉そのままに多数の読者や視聴者、聴取者に届くのである。
しかし当然ながら、マスメディア経由ではない発信の方法も機会も存在する。アメリカのとくに首都ワシントンでごく頻繁に開かれるセミナーやシンポジウムで意見を発表するというのも、その有効な方法の一つである。
私はワシントンで長年、活動してきて、研究所や大学の主催するその種の集いで、実際に講演や報告をすることを求められるのも珍しくはなくなった。
その一例を紹介したい。とくにこの発信メッセージは「日本のナショナリズム」というタイトルだった。日本側での実情が海外で誤解されることの多いテーマである。
二〇〇七年十二月八日だった。
アメリカの大学や研究所に所属する日本研究者たちの全国学会の「ワシントン・南東部部会」が主催した秋の会合のセミナーだった。
主題は「日本のナショナリズム」である。
私がいわゆる基調講演者だった。参加者はワシントンと周辺のメリーランド州、バージニア州などの大学や研究所の学者たちが主体だった。
私の講演の題はあえて「日本のナショナリズム=神話と現実」とした。
以下はその内容の英語から日本語への翻訳である。
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「本日はこの集いにお招きいただき、ありがとうございました。さて本日は日本のナショナリズムについてお話しをしたいと思います」。
アメリカの学界でもジャーナリズムの世界でも、日本に関連していつもよく使われるのは『日本のナショナリズム』という言葉です。
しかしこの言葉が投射するイメージは往々にして日本での現実とは一致しないことがあります。
まず第一に『ナショナリズム』という言葉自体の意味が曖昧です。
その言葉を定義を考えないままに使うことは、その言葉を向けられる国の人たちにとって、誤解やあざけりを受けた感覚の原因となりがちです。
おもしろいことに、このナショナリズムという言葉に似た意味を持つ語として『愛国心』というのがあります。
しかし『日本の愛国心』という言葉がアメリカ側の日本研究やジャーナリズムの日本報道のタイトルとして使われることはまずありません。
『ナショナリズム』と『愛国心』という二つの言葉を並列的に並べ、そのそれぞれを日本人の心情調査の基準として適用したら、おもしろいのではと思います。
ナショナリズムというのは個人のレベルでは自分自身を自国、同胞、自国の文化や伝統と認識上、一致させるという意識のことでしょう。
ウェブスター系の英語の辞典によると、その言葉のもっとも一般的な意味は「国民による自国への忠誠や献身」を単に指す、ということです。もっと集合的、あるいは制度的な次元でのナショナリズムの意味は、自国に対する団結、責務、献身、そして犠牲などの意識ということも含まれてきます。
こうした属性は全世界のアメリカを含むほぼすべての国で自明であり、正常、しかも健全だとみなされています。
しかし日本では違うのです。
より厳密に述べるならば、ナショナリズムという言葉の辞書の定義には、もうちょっと異なる意味も含まれており、そのなかには「一国を他のすべての諸国よりも高揚させること」や、「他の諸国や超国家的集団よりも特定の一国だけの文化や利益への忠誠やその促進を強調すること」という定義もあります。
この狭義の意味のナショナリズムこそ、戦前に日本に対する欧米の評価を想起させようと意図する学者たちによく好まれて、使われるということも考えられます。
戦後、この定義のナショナリズムが適用されてもふしぎではない諸国は多数、存在してきましたが、客観的にみて、日本はそういう諸国のリストにもし入るとすれば、最後の最後となるでしょう。
『愛国心』はウェブスター系の辞典では、『自国への愛、あるいは献身』と定義されています。この言葉はアメリカでの使用ぶりをみると、よい意味で強い心情がこめられているため、あらゆる党派の政治家たち、さらには他の分野のアメリカ人たちは、この言葉が呼び起こす資質にみずからを一致させようと奮闘しています。
しかしながら日本への言及でアメリカその他の識者たちが『愛国心』という言葉を使うのは、きわめて稀です。おそらく『アメリカのナショナリズム』という表現のほうがいくらかは多く使われるでしょう。(つづく)
杜父魚文庫
13746 日本のナショナリズムとはなにか 古森義久
古森義久
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