明治43年(1910)生まれの母が生きていたら103歳。母が18歳の時に長逗留した信州上山田温泉の荻原館に一泊したのだが、かなりの深酒をしたのに寝付かれず明け方の四時に起きて、まだ暗い上山田の温泉郷を二階から眺めた。
五時を過ぎた頃、目のまえの山腹に十数年前に倒産した信州観光ホテルの残骸が現れた。三年前、次女を連れて上山田温泉に来た時の見た風景がそのままである。思わずカメラを構えて写真を撮した。
母が実践女子大の予科の時に10日間も長逗留した荻原館は木造の建物だったが、いまは四階建てのビル。85年以上も経つのに残っている。この宿がよほど気に入ったのであろう。母は結婚後、父と実弟の木村金一郎を連れて三泊四日も逗留している。
目の前の信州観光ホテルは母と血がつながる従兄・山崎善兵衛が設立に参画して、建設当時は東洋一の温泉ホテルの名をほしいままにしている。それが、いまは無惨な廃墟の姿をさらしている。
善兵衛さんも母もいまは亡い。母がこの世を去って31年の歳月が去った。せめて生きている時に信州観光ホテルに連れてくれば良かったと悔悟の思いが身をさいなむ。もっとも母は荻原館の方に泊まると駄々をこねたのかもしれない。
3年前の夏、上山田温泉から戻って「地方の疲弊をどうするのだろうか」との一文を書いた。それを再掲することにした。
■地方の疲弊をどうするのだろうか 古沢襄
一泊二日の信州旅行だったが、地方の疲弊を身をもって感じる旅となった。上山田温泉郷といえば、信州でいえばもっとも栄えたところである。十数年前に倒産した信州観光ホテルだが、最盛期にはバスを連ねて温泉客が繰り込み、景気づけに花火をあげたという。
今は山の中腹にある信州観光ホテルが廃墟の姿をさらしている。私の母方の祖父一族が信州観光ホテルの建設に当たって発起人の名を連ねていただけに他人事とは思えない。タクシーの運転手さんは「まだ大きな旅館の倒産が続いている」と言っていた。その大きな旅館も壊すだけの資金がなくて無惨な姿をさらしている。
上山田温泉郷そのものが火の消えたような寂れ方をしていたのがショックだった。運転手さんはふたつの理由をあげていた。長野冬季五輪景気を当て込んで、多くの旅館が銀行借り入れをして、増改築をしたという。その後のデフレの嵐で銀行借り入れが仇となって倒産した旅館が多いと言っていた。
また長野新幹線が上山田温泉郷を素通りして停車駅がないことも衰退に拍車をかけたという。昔日の上山田温泉郷の賑わいが戻るのは、いつのことになるのであろうか。国の財政再建も必要なことだが、衰退している地方を元気にさせる景気回復の方がもっと緊急にして必要な施策ではないだろうか。
上田市は母の実家があるところだが、養蚕で栄えた街の賑わいがみられない。シャッターをおろした商店もある。観光客も想像以上に少ない。帰りの長野新幹線に乗ったのだが、グリーン車には私と次女の二人だけ。軽井沢で数人が乗車してきただけであった。観光シーズンだというのに暗澹たる気持ちに襲われた。
民主党政権が悪いというわけではない。20年に及ぶ不況には自民党政権の責任もある。不況脱出に思い切った景気回復の手を打ってこなかったツケを地方が背負っている。
菅首相は財政再建に不退転の決意でのぞむと国会の予算委員会で言った。景気回復のために不退転の決意でのぞむとは言わない。それでいいのだろうか。(杜父魚ブログ 2010.08.04 Wednesday name : kajikablog)
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13909 上山田の信州観光ホテルと荻原館 古澤襄

コメント
信州観光ホテルは廃墟となりながらも現在も圧倒的な存在感を放っていますね。
建設当時は白い建物だけだったのでしょうか。