百一年前の本日、すなわち大正元年(一九一二年)九月十三日、乃木希典と夫人静子は、崩御された明治天皇のみあとをしたひて、御大葬の弔砲が鳴り終わる頃、礼法どおり刀によって殉死した。
警視庁医務員作成の「乃木将軍及同夫人死体検案始末」は、乃木将軍と静子夫人の遺体の状況をつぶさに記載し、その死にざまの見事さを讃えている。
乃木希典、辞世
神あがり あがりましぬる 大君の
みあとはるかに おろがみまつる
うつ志世を 神去りましし 大君の
みあと志たひて 我はゆくなり
静子、辞世
出でまして かへります日の なしときく
けふの御幸に 逢ふぞかなしき
この殉死の七年前の明治三十八年に終わった日露戦争に動員された陸軍将兵の総数は延べ九十四万二千、死傷者二十二万三千である。
乃木希典は、第三軍司令官として旅順要塞攻略の任務を与えられ、明治三十八年一月一日、六万人の犠牲を出してそれを陥落せしめた。
さらに、第三軍は、直ちに北上し、三月一日から開始されたロシア軍三十二万が集結する奉天への総攻撃に際し、日本軍最左翼からロシア軍を包囲するために最先端、最先鋒に死闘を繰り返して突出するという役割を果たし続け、ロシア軍の奉天からの退却と奉天会戦勝利の切っ掛けとなった。
この奉天会戦の死傷者は七万人である。
翌明治三十九年一月、乃木希典は満州から凱旋帰国した。そのときの乃木将軍を観た私の祖父は、娘(私の母、明治四十二年生まれ)に後年言った。
乃木将軍に、勝利の凱旋という様子は微塵もなくひたすら頭を垂れて恐縮している風情だった、と。そして乃木将軍は、明治天皇の前で、「旅順の攻城には半歳の長日月を要し、多大の犠牲を供し・・・臣が終生の遺憾にして恐懼措く能わざるところなり・・・」と復命して涙を流した。
天皇は、その様子から乃木の意図を察せられ、「乃木、朕より先に死してはならぬ」と言われたという。
その後、乃木将軍は、よく学校などに招かれて講演をせがまれることがあった。
その時の演壇に立った将軍は、「私が乃木であります。皆さんのお父さん、お兄さんを殺した乃木であります」、とまず深々と頭を下げた。
明治四十五年七月三十日、明治天皇が崩御され、九月十三日の御大葬の弔砲がなる頃、乃木将軍は備前長船の名刀兼光を握って腹を十文字に切り裂き、その腹を襦袢で覆いボタンをしっかりと止めたうえで、刀を持ちかえて自らの首をかっ切った。
このようにして、嘉永二年生まれの長州藩士乃木希典は、明治天皇の朕より先に死んではならんというご指示を律儀に守り、西南戦争以来の長年の願いであった死を遂げたのである。
そして、楠木正成と同様に、その至誠は永久に我が国に生きる。
杜父魚文庫
コメント
ほとんどの主張は、納得することばかりです。しかし、腹を十文字に切って自らの首を落としたなんていう表現は、病的な側面を持つ政治家だと思います。まともなブレーンは、一人もいないのでしょうか? 残念です。