14008 「鮒佐」の佃煮の味はよい   古澤襄

人間は同じ事を考えつく・・・と感心している。18日の杜父魚ブログで渡部亮次郎さんの「佃煮は余り物保存食」がトップ・テンで読者から読まれている。
”天高く馬肥ゆる”秋だから、猛暑で体力が低下したのを、モリモリと食欲で回復する・・・しかし日本人はおいしい佃煮でご飯をいただくと勝手に想像した。いや、待てよ!フードチエンでハンバーク・ステーキを考える若い人の方が多いのではないか、そう考えて迷っていたところに、亮次郎さんの記事の人気である。
これに勇気づけられて浅草に出掛けて仲店で七色唐辛子を買うついでに、足をのばして「鮒佐」の佃煮も買おうと気持ちがはやる。とりあえず亮次郎さんの記事を再掲させていただく。
■佃煮(つくだに)とは、東京都中央区佃島を発祥とされる海産物の煮物のこと。 大阪・佃村(現大阪市西淀川区)を訪れた徳川家康が、漁民が保存食として作っていた煮物が気に入り、現在の東京・佃島に彼らを集団移住させ、「佃煮」を作ることを命じたと言われる。(「ウィキペディア)
別の説では、織田信長が本能寺で自害したとき、大阪にいた家康は漁民の助けで無事,尾張に帰還することができた。その褒美に、後日、漁民らを江戸の佃島に招き、大きな漁業権を与えた。そこでその漁民たちの作ったのが佃煮だという。
秋田県の旧八郎潟や茨城県の霞ヶ浦では、シラウオ オキアミ、鮒(ふな)、川海老などの小魚を材料とする佃煮業者がかつては大勢いたものだが、ご承知の通り、八郎潟は干拓された。佃煮業者は殆どが転業した。
また霞ヶ浦でも資源が減少、佃煮業者はかすかにしか残っていない。ここでは材料を外国から輸入している業者もいるとか。
八郎潟沿岸で育った私は子供のころは佃煮が好きだった。だが、当時は戦争中のこととて、小魚は捕れても飴や砂糖が皆無になったので口に入らなくなった。
敗戦後、佃煮製造は復活したが、今度は高値で口にはいらないまま大人になって、甘辛くないもの、酒が大好きになってしまった。東京生まれの家人は殆ど食べないので、デパートで買ってくる事は滅多になくなった。
一般に海産物、とりわけ小魚、アサリなどの貝類、昆布等の海藻類、山地ではイナゴ等の昆虫類などを醤油・砂糖等で甘辛く煮染める。
今日で見られるような佃煮を作り始めたのは東京・浅草橋にある「鮒佐」だといわれている。牛肉の佃煮も目にする。
もともとは小さすぎて市場に出荷できない魚を漁民が自家用に保存食としたものだという。濃い味付けのために保存性が高まり、参勤交代の武士らが江戸からの土産物として持ち帰ったため広まった。今では全国各地に土地の名物の佃煮はあり、江戸前に限るということはなくなった。
余り物利用の保存用食品であったことから、物が有り余ってもて余すさまを「佃煮にするほど沢山」などと表現したりする。
現在市販されている佃煮は、うす味、甘口で、真空包装の物や、無添加であっても要冷蔵の佃煮が多い。
本来の江戸前佃煮とは、冷蔵庫や真空包装のない時代に、常温で夏でもおにぎりや弁当に入れても傷まない辛口のものが安心で重宝された。
現在も数軒だが『浅草橋の鮒佐』や『柳橋の小松屋』など、職人の技により手造りの本物の佃煮が日本の食文化として今に受け継がれている。(杜父魚ブログ 2009.08.26 Wednesday name : kajikablog)
杜父魚文庫

コメント

  1. 室佳之 より:

    古澤さんが『七色唐辛子』と書かれており、嬉しくなりました。やはり育ちが言葉にも残っているのでしょう。
    小生は数年前、日本で唯一売り声を芸にされている宮田章司さんに七色唐辛子の売り口上を少しだけ習ったことがあります。その時に初めて『七色』という呼称を知りました。ちなみに『唐子』も『とんがらし』と云っていました。
    江戸っ子は『七色唐辛子』と云い、上方では『七味唐辛子』と呼んでいたとWikipediaにも書いてあります。それが今やどこへ行っても『七味』が圧倒的市民権を得てしまっているのは残念です。
    小生が宮田章司さんの出られるイベントにくっつきながら、七色唐辛子の売り口上を演じさせてもらったときのこと。東京の会場だったにもかかわらず、年配の女性から『七色じゃなくって七味でしょ』と云われ、悔しかったのを思い出します。
    今や都内の飲食店で『七色唐辛子下さい』と云っても分かってもらえないことがほとんどです。『七色唐辛子』の呼び方がなくならないことを願っております。室 佳之

タイトルとURLをコピーしました