14022 この山峡(やまかい)に馴染まむとする   古澤襄

夏の信州旅行から戻ったと思っていたら、早くも秋の気配、半袖・半ズボン姿では朝の散歩もかなわない。書斎のテーブルの位置も背中に日が当たるように変えた。
読書の秋でもある。祖父・山崎由信の実家を訪れて、当主の善彦さんから山崎聖夫さんの歌集「南十字星」「山峡の道」を頂戴したので読んでいる。
聖夫さんは善彦さんの父。陸軍大尉の職業軍人で中支で敵弾を受け白衣帰還、陸軍病院で兄の薦めで「アララギ」に入会していた。傷痍の回復とともに長野師範の配属将校、戦争の激化とともに新編316連隊の第一大隊長として米軍の上陸に備えていた。
戦後は故郷の上山田に戻って町助役を二期、農協専務理事などを務めている。まさに波瀾万丈の人生なのだが、歌集を読むとその人生が手にとるように分かる。
 国境に古城の跡をたづね来て 草の間に咲く山百合いとし
 たたかいはいつ止むならむ 守備隊をゲリラが襲う情報を聞く
 血をふきて倒れし我に容赦なく 敵の追い撃つ弾音きこゆ
「漆腹に養子となる」の一句がある。
戦傷を受けた聖夫さんに山崎総本家から養子に話が持ち上がっていた。漆腹山崎家は、上山田村初代村長の猪太郎氏に貞雄(上山田村長二期、力石銀行頭取)由信(私の祖父・上田木村家に養子)暢夫(上田中学柔道部主将、長野市川中島山崎家へ養子、長野県議)の男の子がいた。
家督を継いだ貞雄氏の長男が善兵衛さん、母の従兄になる。その善兵衛さんに子がいなかったので、叔父・暢夫氏の次男を養子に迎えた。文字にすれば数行の出来事なのだが、県議の息子・聖夫さんにしてみれば複雑な心境だったろう。
 乳足らひし母らのもとを離れ来て この山峡(やまかい)に馴染まむとする
だが、信州・稲荷山町から妻・和さんを迎えて、この山峡の漆原の旧家にも新しい風が吹き込んでいる。和さんは93歳、いまも健在で、夫の影響で和歌をたしなむ。
 妻となるかも知れぬ君訪れて 茶を運び来れば我はとまどう
 さにづらふをとめの君と契る日を 軍服つけて我は並びぬ
漆原山崎家の墓所は、屋敷から歩いて五分ぐらいのところにある。私の母が18歳の時に訪れている。当主の善彦さんと母・和さんと並んで写真を撮した。
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その夜、荻原館で山崎一族の歓待を受けた。右端が93歳の和さんなのだが、昔のことを鮮明に覚えていて驚いた。「山崎家が火災に遭ったことがあるのですが、まき子(私の母)さんから着物を送って頂いたのですよ」。
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杜父魚文庫

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