14112 東洋一の「定遠」「鎮遠」を降した明治海軍  古澤襄

日清戦争・明治27、8年戦役についてフランスの支那学者、アンリー・コルジェーが「支那外交史」で詳述している。軍事史としての日清戦争は日本側史料でも多くあるが、フランス支那学者の泰斗の研究史は珍しい。
コルジェーは1849年にアメリカのニュー・オルレアンスで生まれたが、フランスのパリで教育を受けて1869年に支那に渡った。1881年からパリ東洋語学校の教授、地理学協会の会長、アジア協会の会員、仏国研究会の会員を歴任している。
ウイキペデイアでコルジェーを調べたが、『中国きりしたん関係書誌』で名をみた程度。それをまず紹介する。
■ビブリオテカ・シニカの編者、また極東研究誌『通報』の編者としてもしられるアンリ・コルディエ(1849-1925)による、在中国ヨーロッパ人による中国国内刊行書誌。当初は第6回東洋学者会議に向けて作成された印刷物で、1883年に単行本として発行されたが、1901年に増訂第2版を刊行(本復刻の底本)。
ビブリオテカ・シニカの中から該当書目を集め、著者名アルファベット順に配列、中国名(漢字とローマ字で表記)、生没年、来中年を付記し、巻末に書名索引を備えたもので、索引のないビブリオテカ・シニカに比べ、検索の便にすぐれた書誌である。
日本では南満州鉄道が調査資料としてコルジェーの「支那外交史」を翻訳しているが、いまでは入手が不可能であろう。私の所有本も色あせて、取り扱いに苦労している。
日清戦争は1894年7月25日に支那が朝鮮王の要請で東学党の鎮圧のために「フェーシン号」と「イレヌ号」で兵を送ったが、さらに「高陞号」(こうしょうごう 英国商船旗を掲揚)が兵1260、大砲12門などを積載して牙山沖で、日本軍艦「浪速艦」(艦長東郷平八郎海軍大佐)に停船を命じられ、応じなかったので砲六門の警告射撃の後に水雷攻撃で撃沈された。
「浪速艦」は数時間に及ぶ停船・臨検交渉の末の攻撃で国際法に則っていた。高陞号撃沈について一時、イギリス国内で反日世論が沸騰したが、国際法の権威ジョン・ウェストレーキとトーマス・アースキン・ホランド博士によって国際法に則った処置であることがタイムズ紙を通して伝わると、イギリス国内の反日世論が沈静化した。
日本陸軍は29日、第五師団と第九旅団が牙山周辺で支那軍と交戦、五時間後に牙山を占領した。これらの会戦・海戦はいずれも宣戦布告なき戦闘であった。日本と大清国は8月1日になって宣戦布告を発した。
ここで日清戦争前の日本の政情について述べたい。政府部内では大陸膨張路線と対清協調路線があって、むしろ後者が優位であった。何よりも老大国とはいえ、大清国の北洋艦隊は東洋一の「定遠」、「鎮遠」を擁している。ともに当時、世界最大級の30.5cm砲四門そなえ、装甲の分厚い堅艦であった。
一方、明治維新後、明治六年に英国のA・L・ダグラス海軍少佐を招請し、ダグラスは士官五人、下士官十二人、水兵十六人から成るダグラス・ミッションを率いて来日し、築地兵学寮で近代海軍の士官の養成に勤めている。
明治二十七年に海軍大将になった西郷従道は、兵学寮を卒業した山本権兵衛(薩摩士族)を信頼し、明治海軍を近代海軍に脱皮させる全権を山本に委ねている。いうなら明治海軍は建軍の途上にあった。北洋艦隊が持つ装甲艦も備わっていない。
ここから敗戦後に高橋秀直・大澤博明・檜垣幸夫などの研究者から、開戦は非計画的・偶発的であったとする説が出ている。代表的なのは高橋氏の『日清戦争への道』(1995年)。
両国海軍の装甲差は、9月16日の黄海海戦で露呈した。母港威海衛から出てきていた北洋艦隊は艦艇14隻、水雷艇4隻が索敵中の連合艦隊と遭遇した。横陣をとる北洋艦隊の旗艦「定遠」の30.5センチ砲が火を噴き、戦端が開かれた。
無装甲艦の多い連合艦隊は、全艦が被弾。旗艦「松島」など4隻の大・中破。ただし船体を貫通しただけの命中弾が多かった。
装甲艦を主力とする北洋艦隊は、連合艦隊の六倍以上被弾したと見られ、「超勇」「致遠」「経遠」など5隻が沈没し、6隻が大・中破、「揚威」「広甲」が擱座している。
装甲の差があったが、明治海軍の志気と百発百中の訓練差が黄海海戦の勝利を導いたのであろう。逆に東洋一の装甲艦に依存した北洋艦隊が大敗を招いたといえる。海戦後、北洋艦隊の残存艦艇は威海衛に閉じこもっている。
コルジェーは黄海海戦の模様を次のように記述している。
■支那側 「定遠」7430トン、「鎮遠」7430トン、「経遠」(沈没)2850トン、「平遠」2850トン、「来遠」2850トン=以上鋼鉄艦
「致遠」(沈没)2300トン、「清遠」2300トン、「済遠」(沈没)2300トン、「超勇」(沈没)1350トン、「揚威」(沈没)1350トン
二隻の甲鉄艦・広甲、広乙と水雷艇四隻
*「定遠」と「鎮遠」は上部で火災。「定遠」は火薬が不足し、空のりゅう弾や陶器製のものがあった。
■日本側 「松島」(戦闘中、火薬庫に被弾)4278トン、「赤城」(艦長が戦死)620トン、「比叡」(最も多く被弾)2284トン、「吉野」4216トン、「八重山」609トン
*日本艦隊12隻で戦死者は将校10、下士官・兵卒は69.
杜父魚文庫

コメント

  1. MOMO より:

    1999年のカソリックのクリスマスミサに付き合わされて行くと、牧師が20世紀は戦争の時代だった。と語りました。続いて「日清、日露、太平洋戦争。。」と来た。あたかも日本が侵略戦争ばかりやってきたかの言い振りに違和感を持ち、以後興味を持って戦史を眺めました。ある時ふと、「わが国は自分より大きい国ばかりと戦争をしてきた。しかし世界史を見ると大きい国が小さい国を襲う歴史ばかりである」と気がつき世間一般に流布されているわが国に対するイチャモンに惑わされなくなりました。

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