14116 ネパール紀行 (その3)  宮崎正弘

世界遺産のパシュパティナートでは火葬の遺灰を聖なる河に流していた。無常観、生々流転、どうしても『豊饒の海』を連想してしまった。
<承前> 「写真を撮って呉れませんか?」と話しかけた。「日本からですか?」「そう、ところであなた方は中国の何処から?」と聞くと、上海と鄭州と答えた。24,5歳だろうか。
ともかくカトマンズから満員バスで一時間。バクタプルの入り口についてまず入場料を支払い、歩くこと十分、ダルバール広場の古刹の回廊を三階にまで登ったら、中国人の若者が二人いたところまで綴った。
日本人とわかっても、それがどうしたという風情で、いまの中国人の若者の政治的無関心、個人の趣味重視を象徴している。
この中国人たちは日本の若者とまったく同じで、屈託がなく、緊張感もない。風貌にも皺がなく、人生の呻吟を感じさせないのだ。
経済成長がはぐくんだ新人類というカテゴリーに入るのか、そのくせ服装にはカネをかけ、おまけに高価な一眼レフのデジタルカメラを持っている(もちろん日本製)。かれらの手にするガイドブックは『地球の歩きか』の中国語版、だから同じ場所、同じレストランで中国人、韓国人とやたら遭遇するわけである。
ダルバール広場にはスペインからの観光団がどやどやと入ってきた。ガイドが持つ国旗で分かる。ネパール人のガイドが先導している。
その付近に三人、五人と屯しながら、写真を撮っているのは中国人である。一昔前のように大声を上げるわけでもなく、そもそも最近の中国人の新世代は携帯電話も文字通信。この変化も日本の若者に似ている。
 
バクテプルは十五世紀から十八世紀にかけてマッラ王朝の首都だった。映画「リトル仏陀」の背景は、この町で撮影された由である。
旧王宮と名刹、古刹がダルバール広場に並び、どうみても日本の平安京から奈良にいるような時代錯誤を覚える。
▼中世の都市はたしかに外国人観光客のあつかいに馴れているが。。。
その古刹のひとつは喫茶店になっていて、ここも三階まで登れる。木製の階段をぎしぎしとのぼると町全体の展望が開ける。
珈琲を飲もうとして周囲のテラスに座っている客はといえば、なんとここも中国人ばかり。店主に聞くと「日本人? 最近はぐんと減って、中国人と欧米人、つぎが韓国人の順番ですかねぇ。わたしらも、いまニーハオ、シェシェーとカムサミーダくらいは習ってますよ」。珈琲はネスカフェしかないというのでヒマラヤティを頼む。一杯、180円で広場を見下ろせる特等席にしばし陣取った。
バクテブルはタンカ(仏画)の町でもあり、陶器の工場もあるが、ほかに産業はない。水が豊富で井戸水をくんでいる。路地のような迷路にはいると、朝から何もすることのない老人達が屯している。観光客慣れしているのか外国人をじろじろと見たり、声をかけてくる風情さえない。貧乏でも満ち足りているのだ。
仏寺やヒンズー寺院に囲まれて、瞑想するのが習慣なのだろうか。ネパールの隣のブータンで国王夫妻が来日したときに「国民の幸福度」と盛んに力説されていたことを思い出した。
たとい経済的に貧困でも、生活に満ち足りていれば、精神的に貧困な国々の物質主義を羨むことはないだろう。
さて仏画(タンカ)を中国語では「唐カ」と書いている(「カ」は上に上、下に下の一文字)。唐の文化でも言いたげだが、その当て字の凄まじい自分勝手には呆れる。
店先では数人の女性が筆を執って懸命に仏画を描き、展示している隣が売店という仕組み。スペイン人が珍しそうに眺めているが値段を聞くと、さすがに買う人はいない。良い物は数万円から十数万円するからである。
広場から、東側三キロほどにもう一つの名刹があるというので歩いて行った。こじんまりとした住宅が密集しており、田舎の風景である。
帰り道が分からず、カトマンズ行きのバスの停留所が何処なのか、訪ねてもこのあたりは英語が通じない。偶然、デモ隊と遭遇したが、温和しく、警察隊が周囲にでているが、にやにやと眺めているだけ。ここでもデモ隊は国旗を靡かせている。
 
超満員の大型バスがやってきたので、カトマンズへ行くか?と聞くと車掌がうなずいた。乗り込むと立錐の余地なき満員である。40分ほど手すりにつかまって立っていた。車中のネパール人を眺めると、みな一様に温和しく、若い人は携帯電話で文字を発信したり、ゲームに熱中している。なんだか、日本の地下鉄の風景と変わらないではないか。
市内にはいってようやく席が空いたので腰掛けると、こんどは大学生の集団がざわざわと乗ってくる。男女混合、女性は化粧がうまくなったのか、輪郭がはっきりとしていて美人が多い。選挙のことを聞いても、笑うだけ。人生目標は雇用にあり、結婚をいそぐそぶりもなく、どうやらネパール人新世代も価値観の変化はたいそう旧世代と懸隔があるとみた。
 ▼カトマンズ市内にある世界遺産
王宮の近く(旧王宮は現在、王宮博物館として開放されており、ギャネンドラ前国王は敷地内に住んでいる由である)、アンナプルナホテルを見て既視感があった。そうだ、四十二年前、このホテルに泊まったのだ。ホテルの前はだだっ広い広場で自動車の交通量がすくなくてガランとしていたことを思い出した。
往時に比較すれば、交通渋滞は異様である。そこで、このホテルで昼飯を取ることにした。
下町の食堂を高級ホテルのレストランはどれほど違うのか。雰囲気、従業員のマナー、英語理解力、値段など。アンナプルナホテルには洒落たプールもあり、一泊180ドルほど。館内にはバア、印度料理そして中国料理がある。ためらわず中国料理を選び、二品とビール。
品のよい女性店長に聞く。「中国人は来ますか?」「このホテルは欧米人が多く、中国人は金持ちしか来ないです」「日本人は最近どう?」「あまり来なくなったですね。不況だからでしょうか」。広い店内、60名は入れそうだが最後まで客はわたし一人だった。
値段? わずか1800円だった。ここでひとつ了解できたことがある。中国人が夥しいのは若者ばかりで、けっきょく「安、短、近」だからである。
昨年統計で中国人の海外旅行は8500万人(日本は1900万人ほど)、しかし、香港とマカオで5000万人だから、正規の海外旅行は3500万人。金持ちは欧米に集中し、ブランド品を買いあさり、一流ホテルに泊まるが、若者は近くて、日数が短くて、安い場所を選びがちとなる。だからエキゾティックな雰囲気を持つネパールが中国人の若者で溢れることになったわけだ。
北京、上海、広州ばかりか成都、重慶、昆明、南寧などからも直行便が乗り入れている。
さて筆者の一番の関心事は「次の選挙でマオイストの躍進はあるか、ないか」「王国から民主国家になって、自由度は増したのか、民主主義に失望したのか」「中国の影響力拡大を本当に脅威とは捉えていないのか」などで、共通の質問をいろいろな階層の人々にぶつけることだった。
大まかな感想を言えば、王政復古を望む声は少数派、中国との急接近はバランス外交。民主化は喜ばしいし、投資が増加すればネパールは豊かになれる」とおしなべて国民は未来に楽観的なのである。これは予想しなかったことだ。
ラオスは国王を追放し、カンボジアは王政に復帰した。戦後、王政を倒したのはイラク、エチオピア、そしてイラン。こうした文脈からみても、ネパールに王政復帰は考えられないシナリオではないが、現地の感覚から言えば、すでにアナクロという認識だった。
世界遺産のパシュパティナートでは火葬の遺灰を聖なる河に流していた。パシュウパティナートへはアンナプルナホテルからクルマで行った。英語をよどみなく喋る運転手は「ジョンと言ってくれ」となんだかアメリカ流である。
パシュパティナートはカトマンズの東郊外、30分ほどで着いてしまう。入場料が1000ルピー(千円)、さすがに世界遺産、ただしヒンズー教徒は無料。ヒンズーの聖地であり、敷地内には修業者(サドゥ)らもいる。撮影するとチップを要求するから俗物のようでもある。
川岸で火葬儀式が行われ出丸のようなコンクリート桟敷に遺族が集まって静かに食事をしている。男は上半身裸である。
これは死者をおくる側のしきたりである。供物を狙う猿が堤防にとまっている。火葬場には遺族親戚友人らが漫然とあつまって死体が焼けるのを見ている。じっと見ている表情は哀れみと涙。
無常観に溢れ、どの人の人生にも生々流転がある。筆者はどうしても『豊饒の海』を連想してしまった。
三島由紀夫の遺作第三巻の『暁の寺』はベナレスの火葬風景が克明に描写されている。筆者は過去に二回、ベナレスに行っているが、火葬現場の撮影は禁止であり、遠藤周作『深い河』では火葬現場を撮影した日本人カメラマンが群衆に追われ、殴られるシーンがある。
ガーツ(河門)にはヒンズー教徒にとって神の使いとされる牛がいる。
聖なる河ガンジスでは遺灰を流すが、その同じ河で顔を洗い、歯を磨く者がいる。排便する人がいる。沐浴し、洗濯する女達もいる。あのインドのガンジスの火葬に比べるとネパールでは撮影が自由である。これは貴重な風景と、筆者は何枚も写真を撮った。
杜父魚文庫

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