先に九月十五日の朝、「ミュンヘンの教訓が消えた」という一文を書いてからキーボードの前に座る時間を持てなかった。それで、本日は十五日からのことをお伝えしておきたい。
九月十五日は、四国南方洋上を北北西に進む台風が近畿圏に近づいていたときだった。その日の夜、私の住む堺の榎校区の「布団太鼓」が方違神社の宮入をする。これは秋祭りの神事である。
布団太鼓とは、五十人くらいの男が担ぐ重さ二トンを超える大きな御輿で布団を高く重ね合わせてある。その重ねた布団の下には着物を着て化粧をした子ども達八人くらいが乗り込んで太鼓を叩き、布団の上には大人が三人ほど乗る。布団の上は二階建ての家の屋根くらいの高さである。
私は、昨年に引き続き、宮入の布団太鼓の上に乗り込ませていただくことになっていた。しかし、十五日は次第に風雨が激しくなってきて、昼飯時に朝から地域を廻っている布団太鼓を見に行くと、布団にビニールをかぶせ、担ぎ手の若い衆が雨の中に座って弁当を食べている。
「台風が来ても、槍降ってもやるか」と聞くと、彼らは、「やります」と答えた。
そして、ますます風雨が激しくなってきた夕刻、布団太鼓の運行を取り仕切る青年団長が、神社境内への宮入に当たり、ビニールを外して布団の上に乗ってくれと指示してきたので乗り込んだ。
以後一時間半の間、五十人の若者が力の限りを尽くして担ぐ布団太鼓の上で揺られ風雨に曝されて方違神社境内にいた。担ぐ若者が時々挙げる掛け声は、「べーら、べーら」。漢字で書けば「米良、米良」、つまり良い米の収穫を神々に感謝しているのだ。
雨風の中で布団太鼓を神社の拝殿前にすえて、百人以上のずぶ濡れの若者が方違神社の神々に頭を垂れる一時は厳粛の気が境内に漂う。そして、次の瞬間は、大勢の掛け声と太鼓が響きわたる。それを大勢のギャラリーが見守り励ます。
揺れに揺れる布団太鼓の上で何を思ったか。それは、これこそ日本だ、ということだ。つまり、伊勢神宮が二十年ごとに行う、大勢の神領民が力を合わせる尊い式年遷宮の行事を、この方違神社でも、また日本全国津々浦々でしているのが日本国であり日本文明だという実感。
この感激を布団太鼓の上で味わっていた。
この尊い神事を続ける方違神社、榎布団太鼓保存会、榎青年団に感謝する。この宮入の前日の朝、布団太鼓出発に当たり、私は次の通り青年団に挨拶した。「堺は、日本のへそで、榎は、堺のへそである。みんな、日本を担ぐつもりでしっかりと榎の布団太鼓を担いでくれ!」
歴史学者のトインビーは、「十二歳までに民族の神話を教えない民族はことごとく滅亡している」と言ったという。そして、こともあろうに、このトインビーの警告に従って、日教組の主導する我が国の戦後は、義務教育で我が国の神話を子ども達に教えない。
しかし、我が国は滅びない。それは、日本の津々浦々で秋祭りという神々に祈る「神事」が行われているからである。学校の先生が何人逆立ちしても、一つの布団太鼓が地域の世代を超えて伝える教育効果を凌ぐことはできない。
九月二十二日は、榎の隣の百舌鳥八幡の布団太鼓の宮出しを見物し励ました。ここは榎より大規模で十台ほどの布団太鼓が各々順番に一時間くらい境内でしこりながら次々に八幡さんを出て行くのである。
しこりにしこって大騒ぎをして、ふさをゆすりながら布団太鼓が境内を出て行ったあとは、秋祭りの終わりである。一つ、また一つと、太鼓の音が遠のいてゆくのに合わせて、一種の寂しさが境内に漂う。
この宮出しを見た思いは、榎の宮入を体験した思いと同じであるが、百舌鳥八幡でもう一つ新たな実感を得た。それは、戦国武将が戦に臨んで何を注意深く観ていたかということである。
炎天下に二㌧を超える布団太鼓を大勢の男達が担いでしこる時、彼らの体力が急速に消耗していくのが分かるのである。体力が消耗してくれば、布団がどちらかに傾き、ふさの揺れがばらばらになり、真っ直ぐに進まず見物客の方向に布団が流れ始める。
こうなれば、少し休まなければ、本殿前の階段を布団太鼓を担ぎながら降ろしてゆくことは危なくってできない。
機械文明になれて敵が見えないミサイルの時代の現代人が忘れているポイントは、戦国武将は部下の体力の消耗度と敵の体力を見極めて、突撃のタイミングを計っていたに違いないということだ。
生身の人の体力、これが我が国の歴史が動くときのポイントだったということだ。
島津義弘は、関ヶ原の合戦で西軍の本陣(石田三成)近くに陣を構えながら、西軍が総崩れになるまで兵を動かさず、西軍の大将が逃げ去ってから、タイミングを見極めて敵の徳川家康本陣に向けて(つまり家康本陣の背後である伊勢街道を目指して)一挙に退却を開始する。
しかし、その行動に移るまでに、激戦の中で兵を動かさなかったので、流れ弾により多くの兵が闘わずして斃れた。当初私は、何故義弘は動かなかったのかと、その意図を計りかねた。
しかし、この犠牲を払っても兵を動かさなかった由縁は、義弘は当初から卑怯者との誹りを受けない形での敵中突破による戦場離脱を決意しており、少々の犠牲を覚悟して、その為の兵の体力を温存していたのだ。
この義弘の配慮がなければ、薩摩軍・義弘主従は関ヶ原から薩摩に帰還できず。薩摩藩の存続も危うくなっていただろう。そして、この時の薩摩藩の浮沈は、明治維新の成否にも影響を与え、ひいては現在にもその影響は及んでいたのである。
次に、安倍晋三首相が、消費税増税を決めたようだ。何か盛んに増税やむなしの声が湧いてきていて、総理はその中で、なし崩し的に増税と「決断」したようだ。
その「決断」のわりには、同時に為される消費活性化策が「みみっち」過ぎる。このみみっちさは、官僚主導を意味する。
やはり、総理は、山田方谷先生が、財政再建にあたり、陥ってはならないと戒めた「ことの内に屈して」決めたのではなかろうかと危惧する。
九月二十二日の産経新聞朝刊に、田村秀男編集委員が、「『現金支払機』の増税デフレ」という解説を書かれている。この解説が全てを指摘している。私も、中川昭一さんの「遺言」を思う。
ところで、安倍総理が、消費税増税に関して、「ことの外にたつ」のではなく「ことの内に屈して」いると危惧する理由は他にもある。あの赤い帽子のけったいな服装だ。
安倍総理が、福島第一原発構内の水漏れのタンクを視察する姿は「滑稽だった」し「異様」だった。月面に着陸したのでもあるまいに。
かつて民主党の岡田氏が、自分だけが防御服に身を固め、平服の人に案内されながら原発近くの被災地を視察する映像を見て笑ったが、
安倍総理の赤い帽子のすがたは、本人が真面目であればあるほど、同じように滑稽だった。
何度も言うが、放射能防御学専門の札幌医科大学の高田純教授が、福島第一原発の原子炉建屋が爆発した直後の平成二十三年四月十日頃までに付近の放射能を隈無く測定して、原発の正門の前に平服で立って「ここは安全です」と報告している。従って、フクシマは安全なのだ。
だったら、安倍総理は何故あんな格好をしたのか。安倍総理は、あの視察の直前に、ブエノスアイレスで、フクシマは、完全にコントロールされている、つまり安全だと世界に宣言したのではなかったか。
そして、その発言は、「ウソ」ではなく「真実」だった。ならば、安全なら、何故、平服で視察しないのか。
あの頭に赤い帽子をのせた宇宙服のような服装は、そこが普通に歩けない危険なところだからするのである。安全なところでする服装ではない。従って、安倍総理は、あの服装をすることによって、世界に「フクシマは危険だ」という広報をしたのだ。これが、分からんのか。
仮に譲って、少々危険だったとしても、意地でも平服で視察するのが世界に安全だと言い切った日本の総理大臣の務めであり心意気だ。
繰り返すが、安全なんだから何故平服で視察しなかったのか。東電や周りの、「この服にお着替えください」、という要請に従ったのか。
だから、消費税も、財務省や取り巻く周りの、「やはり上げねばなりません」という要請の「内に屈して」、増税に流れたのではないかと危惧しているのである。
最後に、当然の抜本的解決策を指摘したい。
安倍総理は、ブエノスアイレスで世界に「フクシマは安全だ」と表明した。従って、それを裏付けるために、世界と日本の放射線防御学や放射線医学の権威や専門家そして宇宙で地上より高い量率の放射能を長時間浴び続けた多くの宇宙飛行士の診察をしたアメリカやロシアの専門医達をフクシマに招いて、気が済むまで今や世界的関心事となった「フクシマ」を検査してもらい、安全か否か結論を出してもらってはどうか。
そして、あの「反原発の菅内閣」が決定したフクシマにおける放射線が安全か安全でないかの「基準」の抜本的見直しを実行したらどうか。
このまま漫然と、あの「反原発の菅内閣」の基準に盲従し、除染作業や住人退避の措置を続けることによって日々増大する国民の心理的、経済的損失、そして国庫と国益の損失と毀損は、耐え難く計り知れない。
総理大臣、あんな滑稽な服装でフクシマをうろうろするよりも、一刻も速く、以上の安全基準見直しの決定を総理大臣として為し実行されたい。
杜父魚文庫
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