人に人柄があるように、国には国柄があります。
「君が代は千代に八千代にさざれ石の巖(いわお)となりて苔のむすまで」細(こまか)い石である「さざれ石」が集まり、1つの「巖」となることを示した国歌『君が代』の詞です。日本の国柄を表(あらわ)す国歌としてふさわしく、この国柄が日本人1人ひとりの人柄をつくってきたと言っても過言ではありません。
日本とは正反対な国柄を有しているのが中国です。
中国の習金平国家主席は、「偉大なる5000年の中華文明」と広言していますが、中国が国家統一されたのは、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)時代であり、今から2000年少し前のことです。その後も20ほどの王朝が興衰(こうすい)を繰り返してきました。これを「易姓(えきせい)革命」と言います。中国の皇帝「天子(てんし)」に徳がなくなれば、最高神(さいこうしん)「天帝(てんてい)」の天命を受けた、徳を備えた新たな人民が王朝を倒し、新王朝を開き、別の姓に改変されるというものです。
皇位を纂奪(さんだつ)した歴代の王朝は天下を私物化し、人民の膏血(こうけつ)を絞れるだけ絞り、贅の限りを尽してきました。このような国柄ですから、中国では常に王朝と人民とは対立関係にあり、人民の王朝への不満が鬱積するたびに、王朝の興衰が繰り返されてきたのです。
辛亥革命を起こし、中国革命の父と呼ばれる孫文が中国を称して、「一盤散砂(いちばんさんしゃ)」と嘆いたことは誰もが知るところです。中国国家は大皿に盛った砂の山のようで、すぐに散ってしまう様を述べたのです。
さらに、文化大革命を主導した毛沢東初代国家主席は、「政権は銃口から生まれる」と明言しています。この言葉も、中国の国柄を如実に表わしています。中国の歴史を見ても、革命や国内の治安、対外政策さえも、すべて銃口から生れており、力しか理解しない国なのです。
未だに公の概念はなく、常に社会は乱れ、易姓革命によって出現した中華王朝であることには、今も昔も何も変わっていないのです。
一方、日本は初代天皇の神武天皇に繋がる「万世一系」の皇統を125代、2700年に亘(わた)って継承している、世界に誇る歴史があります。
さらに日本には、神代から“和の精神”が継承されています。
皇極4年(645年)には、女帝の皇極天皇のもとで大化の改新が断行されました。それまで、豪族によって支配されていた日本を天皇が直接治めるように改めたのです。
皇極天皇は大化改新に当たり、「今始めて万国(くにぐに)を治めんとす」、「万民宰(おさ)むるは独り制(おさ)むべからず、要(かなら)ず民の翼(たすけ)を須(ま)つ」という勅(みことのり)を発せられています。
これは、その41年前の推古12年(604年)に、聖徳太子が『十七条憲法』を制定して、「和ヲ以(もつ)テ貴(とうと)シトナス」と諭されたのと同じ思想であり、「重要なことをひとりで決めてはならない。
大切なことは、全員でよく相談せよ」と定めているのです。これは世界最古の民主憲法であり、その精神を尊重してきた歴史を私たち日本人は大いに誇るべきことです。
中国は、王朝と人民との不信の上に築かれている国であるのに対し、日本は皇室と国民との分け隔てのない和によって築かれている国家なのです。
2年前の東日本大震災では、苦難な状況に耐えながら立ち向かい、道徳的秩序や規範意識などを尊重する日本人の民度の高さが全世界から賞賛されました。
私は、比較宗教・比較神話の研究者でもあります。神代から伝わる日本の神話にも“和の精神”が著(しる)されています。
中国の最高神「天帝」や朝鮮の檀君(だんくん)神話の至上神をはじめ、ギリシャ神話の「ゼウス」、ローマ神話の「ユピテル」など、世界神話の最高神は皆男性です。
日本の最高神「天照大御神」は女性です。世界で最高神が女性である唯一の国なのです。
ギリシャやメソポタミア、インドをはじめとする世界の神話は残虐で残酷な内容ばかりです。
ギリシャ神話のゼウスは、天上から盗んだ火を人間に与えたプロメテウスをコーカサスの岩山の頂へ磔(はりつけ)に罰しました。毎日、大きな翼を持つ鷲を送り、腹を割かせ、内臓を食い散らかせました。不死であるプロメテウスは、鷲がねぐらへ帰ると体が回復してしまうために耐えられない苦痛を味わったのです。北欧神話の主神オーディンも男性の風の神であり、血なまぐさい話によって彩られています。
外国の神様は、何事も独断で決めてしまいますが、日本の神様は事あるごとに額を集めて相談します。
天照大御神の神話の1つです。
大御神は弟神の素戔鳴命(すさのおのみこと)の失態を罰せずに、自身が天(あめ)の岩屋戸(いわやと)の中に籠りました。太陽神であるために、高天原(たかまがはら)が漆黒の暗闇に閉ざされました。この危機に慌てて八百万の神々が天の安(やす)の河原に集まり、相談します。
「神謀(かむばか)る」と言います。大御神をどのように外へおびき出せばよいのかと、さまざまな知恵が講じられます。1つの策として、雄鳥(おんどり)の長鳴鳥(ながなきどり)を鳴かせました。朝が来たと思い、洞穴から出てこられるのではないか思ったのですが、功を奏しません。
万策尽きたところで、女神の天鈿女命(あめのうずめのみこと)が裸踊りを演じ、その滑稽さに八百万の神たちが高天原に鳴り響くほど笑いどよめきました。大御神は一体何事が起こったのかと好奇心を募らせ、重い岩戸を少し押し開き、半身をせりだして覗いたのです。その時、天手力男命(あめのたぢからおのみこと)が大御神の手をとって引き出し、高天原に再び光が甦ったのです。
世界中のいずれの神話と比較しても、これほどやさしい物語は存在しません。何とも日本らしい神話であり、世界的にも貴重です。
最高神に象徴されているように、日本の女性は国の発展を支え、大きな役割を担ってきています。
今では、「夫婦(めおと)」と書きますが、江戸時代以前は「妻夫(めおと)」、あるいは「女男(めおとこ)」と、女、男の順に表記していたほど、女性の存在が強く現れています。事実、日本ほど優れた女性が数多くいる国はありません。
今から1014年前の西暦999年、紫式部が大恋愛して、19歳年上の中級役人の藤原宣孝と結ばれました。紫式部は26歳で初婚でした。娘を1人もうけましたが、2年後に宣孝が逝去。紫式部は生計を立てるために宮中に出仕します。
今様(いまよう)に言うと、「紫式部はOL生活をしながら、人類史上初めてとなる女性による小説『源氏物語』を著した」となります。
平安時代は、才女が絢爛たる筆を競い合いました。名を挙げると、『枕草子』の清少納言、『和泉式部日記』の和泉式部、『更級日記』の菅原孝標女など、実に多くの女性が存在します。
この当時、世界のどの国でも女性は文盲で、男性に従属していました。西欧で女性が初めて小説を書くのは18世紀に入ってからであり、中国や朝鮮、インド、中東などの女性が小説を書いたのは、それから100年以上も後になってからのことでした。日本は女性が才能を競い合っていた稀な国だったのです。
日本では祖国を指して、「母国」と言います。ところが、英語、ドイツ語は祖国を指して「ファーザーランド」、「ファーターラント」(いずれも父国)の言葉を用います。フランス語になると、父国を意味する「ラ・パトリ」しかなく、母国の言葉はありません。
父親は子どもに厳しい規律を課し、優劣を明確に区別するのに対し、母親は子どもたちを優しく、分け隔てなく平等に慈しみます。祖国を母国と称す日本は、多くの女性が活躍した世界で稀有な国家であり、母性が優るやさしい文化を継承してきたのです。
さて、東日本大震災により、「原発神話が崩壊した」などと、「神話」という言葉が、まるで嘘である意味で使われています。
この「神話」の言葉自体、明治維新以前の日本には言葉として存在していませんでした。日本最古の歴史書『古事記』は、古いことを披露した文章の意味で「ふることふみ(古事記)」と読まれており、神話も「ふること(古事)」と言われていました。「神話」と同様に、明治維新以前には存在していなかった日本語は数多くあります。
今から25年ほど前、私は神田の書店で明治32年に刊行された厚さ10センチほどある英和辞典を見つけて購入しました。当時の値段で10万円近くもしました。
江戸時代までは、「個人」、「個性」という言葉もなく、その英和辞典では、「Individual(個人)」を「たったひとりの人」などと記すなど、思わず微笑んでしまう、苦しい説明をしています。日本人誰もが人びとのお蔭をこうむって生かされているという考えを持っており、「個人」の概念がなかったのです。
「指導者」も新しく造られた言葉です。日本は、あくまでも集団合意が行われるコンセンサス(Consensus・意見の一致)社会であり、英語の「Leader」、ドイツ語の「Leiter」を訳すために造られた新語なのです。また、「Dictator(独裁者)」も存在せず、その説明も大変苦労しています。
「宗教」という言葉もなく、江戸時代までは、「宗門」、「宗派」、「宗旨などの言葉を用いていました。
それまでの日本では、神道と仏教が融合(神仏習合)されていました。しかし、一神教が入ってきたことにより、自分の信仰神だけが正しく、他の信仰はすべて邪であり、排斥されなければならないという一神教の概念を表す英語「レリジョン・religion」(ラテン語の「束縛する」を意味する「レリジオ」からきている)の訳語として「宗教」という新しい言葉を造らざるを得なかったのです。現在の私たちが使っている多くの言葉は明治時代に造られた、借り物の言葉でもあるのです。
日本は、自己主張や利己心を慎み、何事も譲り合いながら、和の文化を尊ぶ世界で稀有な国家なのです。
私は空手や剣道など、武道に係わってきましたが、「武道」の言葉は外国語に翻訳できません。英語では、「martial arts(マーシャルアーツ)」と言いますが、それは「戦う術(すべ)」を示します。日本では武道は精神性が極めて高く、試合では勝敗よりも無心で戦う姿勢が尊ばれています。
私は外国を訪ねますと、武術についての話を聞きます。刀の種類が1種類しかない国は、日本以外にありません。どの国でも、刀剣の種類が数多くあり、状況に応じてクラブを取り替えるゴルフのように、戦場によって剣を選んで使うのです。刀を両手で握って戦うのは日本だけであり、その形では相手のフトコロに飛び込まなくてはなりません。剣道では無心で飛び込めと言います。それは剣豪・宮本武蔵の言葉にも表れています。
「斬り結ぶ 太刀(たち)の下こそ 地獄なれ」、「踏み込みゆけば あとは極楽」
さらに、柳生流には刀を使わずに相手を倒す無刀流があります。ここまでくると精神主義の極(きわ)みのような気がします。西洋人や中国人などには、生死を忘れて無心になること自体が理解できないのです。
心を尊重する日本の武士の精神は、日本刀に宿っていると言われます。それは、1273点ある国宝の品目の中で最も多いのが日本刀だという点にも表れています。
心を重視する精神は武道だけに限らず、茶道や華道、日舞、香道など、日本のあらゆる伝統的な芸術文化にも反映されています。
着物もそうです。母親が着物に親しんでいたことから、私は幼い頃から帯を結ぶのを手伝わされ、成人してから、「ハクビ京都きもの学院」や「装道礼法きもの学院」の顧問を務めています。西洋や中国では、マリーアントワネットや皇帝のお后が着用していた服などが今も残っていますが、衣装自体の見た目が綺麗なら、それでいいのです。しかし、日本では着付けや立ち振る舞いはもちろん、心そのものが美しくなければ、綺麗とは言えないのです。
日本語には、心が付く熟語が数多くあります。「心遣い」、「心尽くし」、「心配り」、「心意気」、「心がけ」、「心根」、「心残り」をはじめ、全部で200語を越えます。世界中で日本語ほど、心を含んだ語彙が多い言語はありません。
英語で「heart(心)」が付いた言葉は、「heart attack(心臓麻痺)」、「Heart burn(胸やけ)」など、10もありません。
日本は心の民であり、何よりも心を大切にする国なのです。
日本では、歴史的にも宗教が原因による憎しみから殺し合うことはありません。ところが、英語で「Religious strife」と言いますが、現在、世界のあらゆる地域で、「宗教的な抗争」が起きています。
中東のシリアも、その1つです。
2011年3月以来、内戦状態にあり、国連安全保障理事会の推定では犠牲者の数は10万人を越え、今でも1日6000人の難民が国外に逃れようとしています。イスラム教が2つに分かれ、イスラム本流のスンニー派と傍系のシーア派が戦っているのです。キリスト教には多くの派があり、キリスト教同士でも殺し合っています。他にもドルーズ教など、さまざまな宗教が互いに戦っており、アフリカや中東以外の地域でも同じことが起きています。
このような状態は、開発途上圏だけに限りません。
英国でもアイルランド紛争が続いていました。1937年にアイルランドが独立。英国に残った北アイルランドでは、英国からの分離とアイルランドへの併合を求める少数派のカトリック系住民と、英国の統治を望む多数派のプロテスタント系住民が対立。60年代後半、双方の武装組織によるテロ事件が頻発し、血で血を洗う武装闘争へと発展し、その後、ようやく1998年に和平合意が成立しました。
しかし、未だにカトリックとプロテスタントの住民が住む地域は分断され、その境界は高い壁によって隔てられています。去年12月には、イギリス国旗の掲揚を巡って双方住民の対立が激化し、一部が暴徒化し、かつての対立が再燃するのではないかとの懸念が高まっているのです。
世界中を見ても、日本ほど、和を尊重し、素晴らしい文化を持つ国はありません。長い伝統に育まれた優れた国柄を子どもたちに伝えていく、これが未来の日本に最も重要です。日本の国柄が世界の手本となることで、宗教や思想の対立を超えた、真の平和な世界を創ることができるのではないかと考えます。
杜父魚文庫
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