秋田のことは資料を持っているので、追々書くつもりだと言ったが「急増した秋田県の読者」を掲載したら何と四位で読まれている。”追々”どころではない・・・何か書かねばならぬ。
①隘路に迷い込んだ朴槿恵大統領 古澤襄
②揺らぐTPP年内妥結シナリオ 古澤襄
③ゲイ(同性愛者)を公表し社民党党首選へ 古澤襄
④急増した秋田県の読者 古澤襄
⑤北京の大気汚染 再び最悪レベル 古澤襄
まず「アキタ」という地名の呼称はいつから始まったか?
これは驚くほど古い。古代から使われている。日本書紀・斉明天皇四年(658)四月の条に「齶田(アギタ)」の文字が出てくる。国立公文書館蔵の資料だが、阿部臣(阿部比羅夫か?)の蝦夷征討の記述にある。1355年昔から朝廷では「アギタ」の名が知られていた。
「アギタ」が「アキタ」になり「秋田」の文字が使われたのは「続日本紀」。私の資料では天平五年(733)に「出羽柵を秋田村の高清水岡(現在の秋田市)に遷し置く」(続日本紀 巻十一)とある。
出羽(デワ)の呼称も和銅二年(709)から使われていた。(続日本紀 巻四)。「諸国に命じて出羽柵に兵器を運送させる」とある。和銅五年の「続日本紀 巻五」の記述では「九月に出羽国を設置す」とある。
成立当時は出羽の国府は出羽柵に置かれたと比定されているが、遺構はまだ発見されていない。
このように秋田の地名は奈良時代から朝廷に知れ渡っていた。古代国家にとって北の蝦夷征討が最大の事業だったが、まず出羽の鎮撫が主眼となった。当時は日本海に面した諸国が「表日本」であって、朝廷軍は陸路と海路を使って侵攻している。
出羽・秋田の蝦夷は早くから朝廷軍に服属したのも時代の変化をみてとる水路の情報があったのではないか。
この点が太平洋に面する蝦夷・安倍一族の果敢な抵抗と一線を画した。秋田と岩手の違いは幕末の戊辰戦争でも現れた。奥州列藩同盟からいち早く離脱した秋田藩はそれだけ京都や江戸の情報を手にいれている。
最後の賊軍となった盛岡藩は京都や江戸の情報に疎かった恨みが残る。会津藩の悲劇にも同じことがいえる。
杜父魚文庫
コメント