14209 能代市は古代には淳代(ヌシロ)といった   古澤襄

古代秋田の齶田(アギタ)と並んで淳代(ヌシロ)という古代地名が存在する。現在の能代市と比定されるが、宝亀二年(771)の続日本紀・巻三十一に「渤海使の壱万福ら325人、船十七隻で野代湊に来着する」との記述があった。
渤海使が日本にきたのは三回目、最大の使節団を送ってきている。最初の使節は神亀四年(729)九月、渤海王の使いで首領・高斉徳(こうせいとく)ら八人が出羽国に来着した。これを聞いた朝廷は使いを使わして、”時服”(じふく 特別に支給される時候にみあった衣服)を与えた。
続日本紀・巻十に記述だが、実際には寧遠将軍・高仁義(こうじんぎ)を含む24人の使節団だったが、蝦夷の居住地に到着したので、高仁義ら16人が殺害され、首領の高斉徳ら8人が出羽柵にたどり着いた。
このことは淳代がまだ蝦夷の勢力圏だったことを示しているのではないか、日本にとって渤海使が持ってくる貂(てん)や虎の皮、蜂蜜、人参などは貴重な輸入品となった。渤海国にとっても日本の絹、金、漆、椿油は貴重で、日本と渤海国の交易は必要にして不可欠なものになった。
渤海国からの交易船は延喜十九年(919)まで34回も来日している。
交易船が入港する出羽国の淳代が蝦夷の勢力圏なのは朝廷にとっては緊急の解決課題となった。和銅二年(709)以前に造営された出羽柵は、山形県酒田市付近と比定されているが、天平五年(733)に北の秋田市の高清水丘陵に移している。
「ヌシロ」の蝦夷たちを朝廷に服属させる手立ては軍事面で強化された。天平八年(736)には東国の俘囚まで動員した大規模な征討が行われている。降伏した蝦夷・俘囚には、朝廷が叙位・賜禄を与えたと続日本紀・巻三十三に出ている。
杜父魚文庫

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