14213 夢とロマンの津軽・十三湊遺構   古澤襄

十二年間に及んだ前九年の役の末、康平五年(1062)の厨川柵の攻防で安倍貞任は嫡子・千代童丸(13歳)ととも殺された。安倍一族は滅亡したが、貞任の次男・高星丸(たかあきまる 3歳)は乳母に抱かれて厨川柵を脱出し津軽・藤崎の地に逃れた。(「続群書類従」藤崎系図)
■秋田氏は高星丸の後裔
国立国会図書館蔵の「諸家系図纂」所収の「藤崎系図」に「安日を祖として、奥州安倍氏に連なり、安倍氏滅亡後は貞任の次男・高星丸が逃れて津軽藤崎に行き、その子・堯恒が藤崎城に拠って安東太郎と称す」と由来が記されている。
安東氏に連なる秋田氏は東北の名家なのだが、多くの名家が、その祖先を天皇家に求めたり、その系譜を源平藤橘(源氏・平家・藤原・橘の諸家)に拠り所を置いたのに対して、神武天皇に反逆した長髄彦(ながすねひこ)の兄・安日(やすひ)王を開祖として、安倍貞任・宗任を中興の祖としている。蝦夷の末裔を誇りにしている。
「秋田家系図」では、安東堯恒から五十年余りは空白となっているが、安東太郎堯秀の頃、藤崎から移り、さらに孫の安東太郎愛秀の時に十三湊に移住して城を構えた記述がある。このあたりは諸説があって定まっていない。
■秋田家文書の「十三湊新城記」
秋田元子爵家の所蔵だった「十三湊新城記」(正和年間)は幸いなことに写しを私は持っている。表題は「安倍貞季の築いた十三湊新城は、秦の長城に比すべきものという」。あえて安東氏を名乗らず滅びた安倍氏を名乗っている。
そこには貞季公は安倍の貞任の正裔なりと明記してある。
すでに室町時代に入ろうとしているから、朝廷軍が北辺の十三湊までは侵攻する懸念もなかった。14世紀初頭から15世紀半ばまで十三湊は北辺で交易船が出入りし、最盛時には700隻の船が出入りしていた。ロシア沿海州との交易もさかんだったという。
■十三湊を襲った興国の大津波
殷賑をきわめたこ十三湊だったが、興国元年(1340)八月の大津波で壊滅的な被害を受けた。十三湊を訪れた梅原猛さんは「日本の深層」で次のように書いている。
<十三湊には、安東氏の居城があった。津軽は何度かの朝廷の征伐にあったけれど、どうにも統治できないところであったらしい。津軽が陸奥の国に属し中央政府の統治の中に入ったのは、鎌倉時代以後であるらしい。
その鎌倉幕府すら、津軽の統治を安倍氏の子孫を名乗る安東氏に任せたのである。安東氏は、津軽半島の北の良港十三湊において、この津軽一帯を支配していたばかりか、遠く渤海や宋に使いを通じて、ここに一大文化的根拠地をつくったらしいのである。
しかしこの安東氏も、内紛が続きおとろえたところへ、ついに興国元年(1340)巨大な津波が押し寄せ、ついにその地は、湖底に沈んだのである。
かつての安東氏の栄華のあとは、いまは十三湊の底深く沈められているようであるが、もし発掘されるようなことがあれば、なにが出てくるかわからないといわれる。
中央の史書が秘して語らなかった歴史の真相が、この十三湊の湖底に眠っているように思われる。(昭和58年)>
■発掘調査により明らかになった十三湊の遺構
平成3年(1991)、国立歴史民俗博物館と富山大学人文学部考古学研究室の共同作業で十三港遺跡発掘調査が行われた。
十三湊の都市建設や興国の大津波の真実が、発掘調査で明らかにされている。
それを「歴史と神話 杜父魚ブログ」で書いた。
■幻の中世都市・十三湊と興国の大津波 古沢襄
1987年7月末に安倍晋太郎氏が画家の岡本太郎氏と一緒に訪れた青森県五所川原市は、作家・太宰治の生まれ故郷だが、幻の中世都市・十三湊としても有名である。1340年に起こったとされる興国の大津波で一瞬のうちに壊滅したと伝えられている。
だが人口二〇万を数えた十三湊も興国の大津波も野史では伝えられているが、その事実は久しく謎に包まれてきた。
1991年に十三港遺跡発掘調査が国立歴史民俗博物館と富山大学人文学部考古学研究室の共同作業で行われ、「津軽十三湊」の遺構が明らかにされた。遺構から中国製の陶磁器、高麗青磁器などが出土している。大陸との交易が盛んだったことが窺われる。
この交易に当たったのは厨川の柵で源氏に滅ぼされた安倍一族の末裔・安東氏であった。世にいう安東水軍で最盛時には700隻の船を擁していたという。安東水軍の資料によれば、十三湊に交易船が造られたのは1087年、高句麗の李晩鐘という漂着民が帰化して建造。ヒバ(あすなろ)の木を使ったと伝えている。
1340年の興国の大津波の際に出港中の安東船は536艘2000余人。十三湊の壊滅によって帰港できずに諸国に散らばり、その地に定住している。九州の松浦水軍は元寇の役で活躍したが、安東水軍の流れだという説がある。五所川原市観光協会のホームページで「中世十三湊の歴史と安東水軍」について詳しく述べている。
■五所川原市ホムページ 発掘調査により明らかになった十三湊の遺構
鎌倉時代から室町期にかけて港町として栄え、数々の貿易を行っていたと伝えられる幻の中世都市十三湊。中世に書かれた「廻船式目(かいせんしきもく)」の中では「津軽十三の湊」として、博多や堺と並ぶ全国「三津七湊(さんしんしちそう)」の一つとして数えられ、その繁栄ぶりが伝えられています。その他、複数の文献に、巨大な富を抱え、各地と交易を結んだ豪族「安東氏」の存在と共に記録されています。
この中世港町がどのように位置し、どのような役割を持つ町だったのか、また、1340年に起こったとされる大津波は本当にあったのか、その解明のために1991年から始まった十三港遺跡発掘調査では国立歴史民俗博物館と富山大学人文学部考古学研究室が調査に当たりました。
この1991年~1993年の調査によって、ほぼ当時のままの形で津軽十三湊の町並みや遺構が残っていることが明らかになり、これまでに確認された中世の都市としては東日本で最大規模とも言われ、西の博多に匹敵する貿易都市だったことが裏付られています。
調査班によれば、中世十三湊の町並みと推定されたのは東を十三湖、西を日本海にはさまれたやり状の砂嘴で、広さ約55ヘクタール。中央部を南北に推定幅4~5メートルの道路が貫き、街の中心部の道路と交差する形になっています。土塁の南側には、板塀に囲まれた短冊形の区画が整然と並び、京都の町家に似た庶民の住宅街が類推され、都市的な暮らしぶりや当時の人々の賑わいが伝わってくるようです。また、北側には十三湊の中心的な館があったことが分かり、当時の支配者の住居跡ではないかと推測されています。
その他、中国製の陶磁器、高麗青磁器などが出土しており、広く海外とも交易を行っていたことを裏付けることとなりました。これまで伝承と後世の文献でしか語られなかった中世幻の都市、十三湊。都から遠く離れたこの地域に、素晴らしい文化を持った都市は確かに存在し、海を越え、遠く海外と貿易を行いながら発展していたことが明らかとなったのです。
■自由奔放な国際貿易を続けた男たちが、確かにここに存在した
平安時代の終わり頃、12世紀に作られた十三湊は、15世紀後半までの長い年月を国際貿易港として、環日本海社会の中心都市として栄えてきました。そして、海外との交易を深め、十三の繁栄を支えていたのが、今では謎の人物とも言われる安東氏の存在でした。
安東氏の先祖にあたるのが、平泉奥州藤原氏と共に激動の時代を生き抜いた安倍氏です。現在の奈良県と大阪府に連なる「生駒山」には、安日彦(あびひこ)・長髄彦(ながすねひこ)兄弟を長とする一族が住んでいたと伝えられていますが、神武天皇の東征によりその一族が崩壊、神武天皇の手が届かない津軽まで落ちのびてきたと伝承されています。
その子孫であるのが安倍貞任です。安倍貞任は、1060年に敗死し、当時3歳であった第二子の高星丸(たかあきまる)が乳母と共にここ津軽へと落棲、後に安東氏を起こした始祖と言われています。
やがて、安東氏は「十三湊」を本拠地とし、巨大な勢力「安東水軍」率い、十三湊を国際貿易港として繁栄させていくことになるのです。
この安東氏は、鎌倉幕府の北条市が東北以北の「日本の国境の外」を統一するものとして置いた人物で、十三の役人としての諸権利を北条家から与えられており、幕府がいかに安東氏を重視していたかがうかがえます。そして、幕府や地元はもちろん、アイヌなどの人々ともうまく立ち回り、その発展において欠かせない人物だったようです。
しかし、安東氏が築き発展させたと言われるこの十三湊は、日本史にもほとんど現れず、遺跡の発掘調査が行われるまで、言わば知られざる「もう一つの日本」でした。
当時、日本のすぐ北には樺太などの少数民族、東北北部から道南にかけての地域が蒙古(元)と高麗(朝鮮)、沿岸州の各国が相互に交流を行い、日本海を中心とした一大文化圏を築いていたのです。そしてその「もう一つの日本」の中心として栄えた場所がここ市浦の十三湊だったと言われています。
■十三湊遺跡が国史跡に指定される
国の文化審議会は2005年5月20日、五所川原市十三湊(とさみなと) 遺跡を国史跡に指定するよう文部科学大臣に答申しました。今回の指定で青森県内の国史跡は16件となりました。(埋蔵文化財グループ2005/05/24)
杜父魚文庫

コメント

  1. 高橋 繁 より:

    「夢とロマンの津軽・十三湊遺構」等の記事、大変興味深く拝読しました。
    実は九月四日~五日の一泊二日「十三湊と津軽路を巡る歴史探訪」と題する旅行に参加してきました。岩手古文書学会の主催によるバス旅行でした。
    高速道で弘前に向かい、「最勝院・五重塔」「藤田記念庭園」と見学「藤崎城趾」も見ました。
    「藤崎城趾」には「安東氏発祥の地」の標柱が建っていました。「伝説によれば阿倍貞任が前九年の合戦で戦死後、遺児(二男高星丸)が乳母に抱かれて津軽藤崎の地に逃れ、「安東太郎」を名乗り後に「藤崎太郎」と称したという。」解説がありました。
    阿倍一族は北奥羽と深く結ばれていたことを、この小旅行で強く感じました。
    「浪岡城跡」もまた見事なものでした。城主浪岡氏は、南北朝時代、後醍醐天皇を助けた北畠親房顕家の子孫と伝えられ、1500年代前半が最盛期で、京都との交流が盛んであったとある。
    城跡は東西1、200㍍、南北600㍍の規模。幅20㍍、深さ5㍍の二重堀で分けられている。
    ルソンからの壺や器が出土品として飾られていた。貿易港の十三湊と密接な繋がりあると感じた。
    「亀ケ岡遺跡」を見、十三湖の中島にある「市浦歴史民族資料館」に入りました。
    十三湊の歴史の古さと、交易の広さを強烈に感じました。
    「十三湖畔・福島城址」には時間の制約があって行けなかったが、今、行けなかったことが悔やまれてなりません。
    「福島城本丸は安倍、十三、安東氏代々が居城とした。昭和30年に東京大学江上波男教授等の発掘調査で外堀、内堀、土塁跡のほか門址や棚柱が発見されている。
    福島城の築城は定かではないが、太古、大和で敗れた安日、長随彦の一族が十三に落ちて砦を築き、これを「稲城(いなぎ)」と称したことに始まる。寛治二年(1088)のころ、十三湊に初めて交易船が造られ十三海賊集団「安東水軍」の誕生をみる」と解説にある。平泉の文化は十三湊から始まった文化であると
    思っています。確かに津軽・秋田は「夢とロマン」に充ち満ちています。  高橋 繁

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