14261 「ジョウ兄貴、そろそろ来いよ」という囁き   古澤襄

敗戦の翌年、昭和21年の夏、中学三年生になっていた時に上京した。上野駅の地下道には戦災孤児たちが寝ている。上野公園の西郷さんの銅像の下で、私と同じくらい年齢の少年がアメリカ兵の靴を磨いている。「たくましいな!」と思う一方で「疎開先の信州でのんびり勉強をしている自分には東京で生活する自信が持てない」と覚った。
住み慣れた牛込区(現在の新宿区)にも行ってみた。神楽坂の坂の上に立つと飯田橋まで一面の焼け野原。中学三年で東京の中学に戻るつもりでいたが、このまま信州の上田中学で勉強して四年修了で旧制松本高校を受験しようと決心した。
西武線の野方駅近くに父の実弟・岸丈夫(漫画家)が横須賀の海兵団から復員して住んでいる。社会党の機関誌・社会新報に政治漫画を描いていた。その叔父から「オヤジが満州から復員するまで上田にいた方がいい」と言われた。
信州では白米が食べられたが、東京では進駐軍が放出してくれた赤い小麦粉しかない。赤いのは麦の皮・フスマが混じっているからである。それを製パン業者のところに持っていくとコッペ・パンに代えてくれる。高円寺の駅前には闇市が立っていた。インフレが激しかったから、物々交換が流行っていた。
進駐軍の米兵は意外と紳士的。威張っていたのは朝鮮人、戦勝国のような顔をして闊歩していた。敗戦国の悲哀を感じて信州に戻った。上田中学の四年修了で旧制松本高校を受験したが落ちてしまった。五年で卒業して上田の蚕糸専門学校(現在の信州大学繊維学部)を受けるしかないと考えたが、学制改革で上田中学は上田高校になる。さらに一年、高校三年を卒業しないと信州大学繊維学部の受験資格もない。
そこで中学四年修了で東京の中学の編入試験を受けることにして、東京都立第四高校(現在の戸山高校)に入った。最初は野方の岸丈夫宅に転がり込んだが、生活難の叔父のところに迷惑をかけるわけにはいかない。高校三年の時につてを頼って、東北沢にあったヨット鉛筆の専務宅に書生として住み込んだ。
朝は若い女中さんと二人で台所で食事をして、女中さんが作ってくれた弁当を持って都立第四高校に通った。学校から帰ると鉛筆の廃材を燃料にして風呂を焚いた。夕食はまた女中さんと二人で台所で食事。中学をでて女中さんになった人は口数は少ないが気だての良い子だった。
都立第四高校から新制度の東京大学を受験したが見事に落ちた。浪人することになったので、いつまでもヨット鉛筆の専務宅に世話になるわけにいかない。また、つてに頼って事典の平凡社・歴史事典編集部で原稿取りのアルバイトをすることになった。月給は五〇〇〇円ぐらいだった。夜は家庭教師のアルバイト。夕食付きで二〇〇〇円ぐらい。それに育英資金三〇〇〇円を貰ったので、結構、当時としては裕福な身分となった。
東京で一本立ちで生活するたくましさを備えたのはこの頃である。渋谷近くの大橋の下宿屋にいたが、その頃、那須からミッチーの従弟・渡辺幸雄さんが同じ下宿に入ってきた。弟がいない私にとって格好の”弟分”が出来たので、閑さえあれば西新宿の屋台で焼酎を飲むつき合いが始まった。
その幸雄さんとは生涯の刎頸の友になった。66歳で早世してしまったが、刎頸の友を失った心の傷はいまも残る。彼岸で「ジョウ兄貴、そろそろ来いよ」という囁きが聞こえてくる。
杜父魚文庫

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