14354 新彊ウィグル弾圧の張本人=王楽泉が突如、仏門へ   宮崎正弘

■「新彊王」の落剥、完全失脚を予防する逃げ道か?
新彊ウィグル自治区に十六年間も君臨し、自らの出身地からごっそりと部下や兄弟を引き連れて利権を独占し(「山東幇」といわれた)、恣いままの圧政を敷いて民衆の恨みを買い、あまつさえ新彊ウィグルの娘達を「集団就職」と称して山東省の企業へ斡旋し、山東の男達に嫁がせるなど、凶悪な弾圧者=王楽泉が10月17日、突如として陝西省の名刹・法門寺に方素青夫人を伴って現れ、仏門に入ると発表した(多維新聞網、2013年10月20日号)。
新彊ウィグル自治区のイスラム教徒らは「東トルキスタン独立運動」を地下で組織しているが、そのなかの過激派の一部がアルカィーダの軍事訓練所で訓練していた。しかし、そのことをもって独立団体構成員すべてはテロリストとは呼べないだろう。
王楽泉は第十七期の政治局員である。1944年山東省生まれの彼は、新彊ウィグル自治区担当として派遣され、党委員会副書記、書記をととめ「新彊王」といわれた。
王は新彊党書記を三期連続務めたのも、徹底した弾圧政策で望んだからだ。
ところが2009年、ウルムチで起きた反党暴動は、「7・5騒乱」といわれるほどの流血の犠牲を生み、世界から非難の的となった。王楽泉は責任を取らされ、本来なら詰め腹を切らされるところだった。
出身が団派、しかも江沢民に近かった王楽泉は旗色悪くなり、2009年に湖南省書記の張春堅と交替させられ、北京に呼び戻されて閑職に追いやられたが、政治局員のポストは維持された。
その後、まったく消息を絶っていたが、陝西省の法門寺に現れたことは様々な憶測を呼んだ。失脚寸前の逃げ込み、逮捕を免れるためとも。いずれにしても、落剥の象徴と化したことは明らかである。
杜父魚文庫

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