わが家でひとつだけ自慢できるのは、二階の寝室の東側窓から日の出が拝めることである。窓からは遙かに森が見える。借景(しゃっけい)というやつで、さえぎる建物がないから、これだけは特典だと思っている。
田々宮英太郎さんの「昭和秘史 秩父宮と麻布三連隊」は好評のうちに第四巻で終わる。二〇〇四年に九十五歳で亡くなった田々宮さんだったが、その前年の遺作である。
昭和天皇に対する田々宮さんの評価は、菊のカーテンの中で重臣と軍部に操られた人と厳しい。皇弟の秩父宮は大東亜戦争の開戦時に「この戦争は負ける」と主治医の寺尾殿治博士に漏らしている。
イギリス留学の経験があって、1937年にイギリスのジョージ6世の即位式に出席、その後日英協会、日本スウェーデン協会の総裁。一貫して戦争拡大政策に批判的であったので、田々宮さんは国民人気が高い秩父宮が肺結核にならずに健在であれば、日米戦争は避けられた説をとった。
皇弟が陸軍幼年学校に入学するに際しては、陸軍上層部は一般の士官候補生と同じ扱いをする決定をしている。昭和天皇が菊のカーテンの中で摂政宮として育てられたのに対して、最初から一般人の中で幹部将校の教育を受けている。
陸軍士官学校、陸軍大学校の成績は抜群で任官した後は兵隊思いの上官のエピソードがあまたある。弘前連隊の大隊長になって赴任、北海道大演習に際しては、岩手県沢内村の佐々木吉男二等兵が看護卒として秩父宮付きとなった。
「北海道はソバの産地です」と申し上げたら「ソバとは何か」と大隊長から聞かれて説明に苦慮したと言っていた。弘前に帰営したら大隊長室に呼び出され「ソバを食べにいく」と告げられ、馬上の秩父宮を追いかけてソバ屋に案内した。
沢内村の助役になった佐々木氏は、このエピソードを楽しそうに語り、秩父宮に対する敬慕の心を隠さなかった。東北出身の兵は秩父宮に心酔している。
行軍で雨がくると、「外套着用」と命令し、自分はズブ濡れになって行軍の先頭に立った。落後した兵の背嚢を背負ってやったこともあると佐々木助役は遠くをみる眼をして語ったこともある。
私の妻の母は北一輝の従妹。佐渡の女学校を出て東京の北邸にいたことがあるが、戦前の革新官僚だった岸信介氏が北邸を訪れていた。こんど初めて秩父宮も背広姿で北邸に訪れていたことを知った。世間は広いようで狭いという思いを深めている。
杜父魚文庫
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