秩父宮に遺書があったことは知られているが、その内容たるや、一般の想像を絶する凄絶なものである。
僕は五十年の生涯をかへり見て唯感謝あるのみ。特殊な地位に生まれたと云うだけで限りない恵まれた一生を終へたと云う外はない。平々凡々たる一人の人間だが、殊に最後の十年は我民族として国家として歴史上未曾有の難局と困苦の間にあったが、此の間を静かに療養の生活を送れたことは、幾多の同病の人が筆舌に尽し得ない欠乏の中で此の世を去って行ったのに比し、余りにも恵まれ過ぎていたと云ふの外ない。
何も我民族の為になることもせず、引いては世界人類の為にも役にたたなかった此の体の最後を、少しでも意義あらしめる為に、勢津子さへ反対・・敢えて我慢が出来るならばと云ひたいとこだが・・しなければ、解剖に附してもらひたい。(「雍仁親王実紀」吉川弘文館)
身分に驕らぬゆかしい人柄に、感動さへ覚えずにはおられない。しかも恵まれた療養生活の償いとして死後の解剖を望まれるに至っては、ひたむきな良心の現れといえよう。
そればかりではない。土葬の伝統を破って火葬にすること、葬儀は無宗教形式のものを望むなど、破天荒な提言が述べられている。しかもその理由として
僕は、神・・此の字で表現することの適否は別として宇宙に人間の説明し能はない力の存在を認めないわけにいかぬ・・を否定しない。然し現代の宗教に就いて一としてこれと云ふものはない。現在の宗教は何れも平和をもたらすものとは云へない。相互に排他的であり、勢力拡張の為には手段を選ばない傾向さへある。(以下略)
大胆、率直に所信を表明されているところ、生きては、発言をはばかられる真実だったにちがいない。しかもその人生観、世界観たるや、軍人の境域を遙かに超えている。
その胸中に燃えていた思想は、進歩派知識人の思想にもつながることを示すものではあるまいか。
終戦の詔書が出た八月十五日、病床の秩父宮について主治医の寺尾殿治博士は次のように方っている。
なにを考えていらっしゃるかしらんと思ったくらいに動じられないんですね。あとで聞くと、宮様は開戦と同時に「負ける」ということをいわれたそうですな。終戦近くなった頃は妃殿下もおわかりにならないで、「いったい勝つんでしょうか。どうでしょう」とおっしゃったこともあったんです。なにもおっしゃらないというんですね。それでいてなにもかも見透かしていらした。それで動じられないんですね。そういう見透かしきく方だったんですね。(「保険同人」昭和二十八年二月号)
生涯にわたる天皇との相克、対立を想起されるとき、いくつもの憤懣があったにちがいない。共同通信社専務理事でアルピニストでもあった松方三郎は、その回想でのべている。
人はだれでも生まれながらにして何等かの束縛を背負っている。肉親の関係もそうだし、地位や身分が有ること無いこといずれもそうだ。そして人の一生はそうした束縛を超越するか、それと調和するか、あるいはそれをたたきつぶして自由になるか、何時もこうした問題に取組んでいるものだが、殿下の如きは、その意味でわれわれの想像も及ばないような複雑な関係の中で生涯を過ごされたのだと思う。(松方三郎「山で会った人」)
その的確なこと、まさに知己の言ともいうべきものだろう。しかも秩父宮は、勇敢に束縛をたたきつぶす、進歩と革新の道を選ばれている。皇族としては、およそ異端の姿勢というほかはない。
死の側より照明(てら)せば ことにかがやきて ひたくれないの生ならずやも(斉藤史)
思想面にかんしていえば、秩父宮の生涯にぴったりの感懐と言えるのではなかろうか。(完結)
杜父魚文庫
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