14842 六十九年前の12月7日  古澤襄

12月7日・・69年前のこの日、B29の空爆に曝された東京を脱出して信州の上田に疎開した。旧制中学の一年生だった私は渋谷・原宿から朝は足にゲートルを巻き、鉄兜をかぶって通学する毎日だった。通学途上でB29の空襲や艦載機グラマンの銃撃を受けたこともある。
東京が戦場になっているという実感があったが、不思議と恐怖感はなかった。後楽園あたりの高射砲陣地からB29目がけて砲弾が炸裂し、邀撃に向かう日本軍機が飛び立つ。友軍健在と快哉を叫んだものである。
調布の農場で実習作業中にグラマンの攻撃を受けたことがある。隣接する調布飛行場が攻撃されたのだが、鉄兜にカーキ色の制服姿だったから、空から見れば兵士と間違って銃撃を受ける危険性がある。軍事教官が「グラマンに狙われたら逃げずに敵機に向かって走れ!射線を見極めて右に左に伏せれば銃弾に当たらない」と命令した。
毎日が戦場のような東京から信州に来たら、これが同じ日本かと思うくらいのんびりとした風景。空襲もなく通学には鉄兜もいらない。それでも敗戦間近に上田市郊外の軍需工場に焼夷弾が投下され、特攻機の中継基地になっていた上田飛行場がグラマンの銃撃を受けた。
のんびりとした市民生活を送っていただけに上田市民は恐怖に震え、大騒ぎとなった。上田中学の校庭に防空壕が一〇カ所も掘られ、私たちは防空壕掘りにかり出されたが、疎開生徒を含めて一〇〇〇人を越える中学生が待避する収容能力はない。
熊谷の陸軍航空学校出身の陸軍中尉殿が軍事教官だったが、B29が上田上空を飛来すると「空中待避!」と叫ぶ。空襲・待避ではない。敵機が基地にくると、爆撃を避けるために駐機している軍用機が空中に待避するので、その癖が興奮して出たのであろう。
人がいい軍事教官だったが、私たちは「空中待避殿」と陰口を叩いていた。
こんなのんびりとした疎開生活だったから、敗戦の悲壮感はなかった。戦争が終わったのだから生まれ故郷の東京に戻ることしか念頭にない。敗戦の翌年に中学三年生になった私は、満員の信越線に乗って上京した。東京は三月十日(陸軍記念日)の大空襲で一面の焼け野原。
その時になって「戦争に負けた」としみじみ実感した。悄然として上田に戻ったものである。
杜父魚文庫

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