欧米史観の出鱈目に気がついて正論を書く外国人ジャーナリストが出現。三島由紀夫の憂国の言説と行動を初めて現代史の流れの中に位置づけた画期性。
■ヘンリー・S・ストークス『連合国戦勝史観の虚妄』(祥伝社新書)
題名こそ「連合国戦勝史観の虚妄」だが、実質的にこれは三島由紀夫論である。
副題に「私の歴史観は、なぜ変わったのか?」とあるように在日外国人ジャーナリスト最古参のストークス氏、かつては三島由紀夫の自衛隊体験入隊にただひとり取材を許された外国人記者。
イギリス人である著者と三島由紀夫との交友は深く、下田に夏期休暇中の三島を訪ねたり、事件後は英語で三島由紀夫伝を書いて世界にその筆名を轟かせた。同書はむろん邦訳されたほか、ギリシア語にも翻訳された。
ストークス氏は憂国忌にも近年は毎回参加され、42回目の追悼会では登壇して思い出話を展開された。また三島由紀夫研究会の公開講座でも講演している。
最初、日本に来たときのストークス氏は、単純に戦勝国史観に立って、日本は悪かった、GHQの裁判は正しく、また南京大虐殺はあったと疑うことなく信じていた。そして滞日五十年、霧が晴れるように米国がおしつけた歴史観の誤謬をさとり、歴史的真実がどこにあるかを認識できるようになった。
ある意味、この本は在日外人記者がはじめて書いた正しい近・現代日本史である。この点に刮目するべきであろう。
「第二次大戦が終わり、50年代になって、私は黒澤明の『七人の侍』や市川昆の『野火』などの映画を見て、新鮮な衝撃をうけた。日本人は何百年にわたったイギリス植民地支配の歴史のなかで出会ったことのない、『別次元』の存在だと気づいた」(中略)「日本が大英帝国に軍事侵攻した途端に、何百年も続いた帝国が崩壊した」。
そしてストークス氏は次のように続ける。「日本は欧米のアジア植民地を占領し、日本の将兵が宣教師のような使命感に駆られて、アジア諸民族を独立へ導いた」。
アジア諸国は日本によって独立を達成した。だから「西洋人はこうしたまったく新しい観点から、世界史を見直す必要がある」と力説されるのである。
▼三島由紀夫との運命的な出会い
イギリスで教育をうけて新聞社に就職し、やがてストークスは日本に特派員としてフィナンシャルタイムズから派遣された。東京に住み始めた時から、三島由紀夫の活動に注目した。これまで出会った日本人とまったく異なる人間だった。楯の会の関連行事にストークス氏は招かれ、間近に三島の思想と行動を観察した。
「三島は私に、イギリスの有名でロマンチックは詩人で、英雄でもあるロード・バイロン(1788-1824)について語った。バイロン卿はギリシアに遠征して、トルコを撃破し、ギリシアから独立させるために、私的軍隊を結成した。三島は(中略)『バイロンがどうやって兵を集めたかが、知りたい』と言った。学生たちを、若者たちを、どうやって私軍に入隊させるか、バイロンはそれを成し遂げた。(中略)三島は日本で、バイロンと同じ役を演じたかったのだ」という秘話をそれとなく挿入されている。
現代日本で三島の精神をある程度、理解していると思われる政治家が首相となった、日本は戦後レジームの克服を目指している。
ストークス氏は安倍政権をこう評価される。「安倍は『戦後レジーム』を終わらせようと、訴えてきた。このまま占領体制を続けてゆけば、日本が力を衰えさせて、消えてしまうことになる。政治家と作家とでは与えられた環境がまったく違うが、三島由紀夫の精神と、共通している」
なんとも外国人ジャーナリストで、これほど真実の日本を語った人が出てきたことは欣快なことである。
さて蛇足ながら、本書には次のようなくだりに評者(宮崎)に関しての事実誤認があるので、引用のあとに訂正したい(本書63ページから64ページ)。
▼蛇足ながら事実誤認あり
(ストークス本から引用開始)「三島は『楯の会』に青年たちを取り込みたかった。三島にとって宮崎正弘は貴重な存在だった。現在、宮崎は評論家として活躍し、優れた中国専門家として、欧米でも注目されている。当時は早稲田大学英文科の学生で、保守系学生運動を指導し、機関紙の編集長を務めていた。
私が1969年(昭和44)年春に、富士山麓で『楯の会』の訓練を取材に行ったときは、宮崎がチケットなど全ての手配を氏くくれた。三島が市ヶ谷で事件を起こした時に、一緒に自殺をした森田必勝を、三島に紹介したのも、宮崎だと聞いた。宮崎が『楯の会』に入会するのに、大きく貢献した」云々。
この箇所の事実関係は次のようである。
「三島は『楯の会』に青年たちを取り込みたかった。三島にとって持丸博は貴重な存在だった。当時、持丸は早稲田大学の学生で、保守系学生運動を指導し、機関紙の編集長を務めていた。私が1969年(昭和44)年春に、富士山麓で『楯の会』の訓練を取材に行ったときは、持丸がチケットなど全ての手配を氏くくれた」
つまりストークス氏は宮崎と持丸博(初代「楯の会」学生長、故人)を混同している。それも宮崎が二代目の学生新聞編集長であり、持丸の後継として編集していたことと同一視する記憶違いの誤認から生じた誤記であり、つぎのように訂正したほうが良い。括弧内を補完して、事実通りである。
「三島が市ヶ谷で事件を起こした時に、一緒に自殺をした森田必勝を、三島に紹介したの(は)、宮崎だと聞いた」。
杜父魚文庫
14903 書評『連合国戦勝史観の虚妄』 宮崎正弘

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