西和賀町の前町長・高橋繁さんから秋田・大曲の有名な花火師・今野義和さんの講演と実演の花火を見てきたと知らせがあった。
東北の歴史に詳しい繁さんは、「秋田に佐竹氏が移封になった時から、その路程の町々に花火があったが、大曲には雄物川の河港があり、西回りの航路があることから、京都の文化や原材料が手に入り易かったことから花火師が集まるようになった」との
今野義和さんの説を一歩進めて、常総の太守だった佐竹の鉄砲隊と火薬調合の職人集団に着眼している。
天正年間の関東各地の大名が擁した鉄砲隊は「国典類抄」によれば、結城氏が300挺、下館水谷氏が200挺、真壁氏が200挺、茂木氏が100挺。
これに対して佐竹氏は本隊だけで1000挺、同盟軍の多賀谷氏は1000挺。佐竹・多賀谷だけで2000挺を越える鉄砲隊を擁して他大名を圧していた。まさに関東一の鉄砲隊だったから、火薬を調合する大規模な職人集団がいたことになる。
家康によって常陸国54万5000石から出羽国20万5800石に追放された佐竹義宣が、鉄砲隊を率いて秋田地方に赴くことは”異心有り”として許されなかっただろう。多賀谷重経の下妻6万石は取りつぶしとななり、鉄砲隊は壊滅している。
しかし家康は佐竹・多賀谷の火薬職人には目が届かなったのだろう。それが時を経て秋田に赴き、日本一といわれる大曲の花火の元祖になったと、考えるだけで楽しい。
鉱山事業にも火薬の調合は欠かせない。曾祖父の為田文太郎は北アルプスの銅山採掘で、火薬の調合を誤って爆死している。
杜父魚文庫
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