15033 岩手日報の「文学の国 いわて」企画   古沢襄

岩手日報の長期連載企画「文学の国 いわて」が昭和戦前篇に入った。作家・道又力氏の力作。12月22日の五面で「輝ける郷土の作家たち」の一人として、古沢元(本名・玉次郎)が取り上げられている。
仙台の第二高等学校時代の古沢元の写真が”硬派の二枚目青年”の注釈で掲載された。論説委員の菅原和彦さんから掲載紙が送られてきた。
古沢元が旧制盛岡中学から第二高等学校に進学したのは昭和2年。盛岡中学の同級生には直木賞作家の森荘巳池、1年下に石上玄一郎がいた。
森荘巳池さんには昭和57年夏に盛岡でお会いした。「”フル玉”といって盛中剣道部の主将で他校から怖れられていたよ」と淡々と語っていた。31年前のことである。

石川啄木を生んだ盛岡中学だから学内に文学を志す気風があったという。古沢元は剣道部主将の硬派の側面の一方で、文学に傾斜していった。親たちは医者になるために第二高等学校の受験を許したのだが、理科の合格者の中には玉次郎の名がなかった。
「落ちてしまった」と帰ろうとしたら文科乙類に二番で合格していたという。
二高時代に仲が良かった八幡次郎氏(朝日新聞政治部長、九州朝日放送会長)から聞いた話である。二人は二高の正門近くにある「ハイデルベルヒ」というミルクホールの美人ママに憧れて、よく通った。
「そのママと君のオヤジは恋に落ちたのだよ」と八幡さんは、とっておきの秘話を教えてくれた。日報の記事では「友人の回想」としか出ていないが、バラしたのは八幡さんだった。
生前の母に八幡さんの話をしたら「あの浮気男が・・」と怒った。作家になってからも深川芸者に惚れこんで母をやきもきさせたという。もてる男はつらい。
学生運動のリーダーだったので治安維持法にひっかかり、二高を放校となった古沢元だったが、このあたりのいきさつは日報の企画記事が詳しい。母が生きていたら、柳眉を逆立てて怒りながら読んだのであろう。
杜父魚文庫

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