15080 「日本的なもの」の再認識は当然の帰結  古沢襄

日本人が2000年の歴史を持つ伝統文化に回帰するのは単なる懐古主義ではないし、偏狭なナショナリズムでもない。
敗戦で失われた「日本的なもの」を再認識しているのは当然のことである。
近代の歴史をみると敗戦国家はいずれも戦勝国によって自国の伝統文化を否定される苦痛を味わっている。もっと言うなら戦勝国の価値観を強制されて自国の伝統文化を否定する立場に追い込まれている。
だが時の経過とともに自国の伝統文化を取り戻している。それは単純な回帰ではない。流れ込んだ新しい価値観を咀嚼しながら、新しい回帰を生み出している。いまの日本はその回帰の課程にある。
かつて私は「縄文的なものと弥生的なものの二面性」を書いたことがある。東北人の末裔を自負している私にとって「縄文的なもの」ほど心に訴えるものはない。
高度の文化・技術を持った「弥生的なもの」を原日本人は受容しながら「縄文的なもの」で包み込んだ独特の歴史を持っている。こんな民族は世界でも珍しいのではないか。むしろ誇るべき民族性である。島国根性と卑下する必要はまったくない。
■縄文的なものと弥生的なものの二面性 古沢襄
現代では、松本秀雄氏がGm遺伝子の観点から、日本人の等質性を示す「日本人バイカル湖畔起源説」を提唱しており、また、ヒト白血球型抗原の遺伝子分析により、現代日本人は周辺の韓国人や台湾人よりも等質性が高い民族であるとの報告もある・・・かなり専門的な説明なので、私流に解説すると
日本人は約一万年続いた縄文時代の後に、高度の文化を持った弥生人という渡来民がやってきた。弥生時代は紀元前三世紀から紀元二世紀、三世紀までの約五、六百年ぐらいの期間だといわれている。
最初は北九州に渡来したのであろう。中国の江南で発達した稲作技術を持って渡来し、(朝鮮半島では、まだ農耕技術がなかった)縄文人にはない戦闘経験にある”戦い”に慣れた集団であった。歴史学者は春秋戦国時代の中国の戦乱を避けて、新しい別天地を求めて渡来した民族だと指摘する。
この渡来民は原日本人ともいうべき縄文人をたちまち圧迫して北上を始めた。最初の北上線は濃尾平野で止まっている。それから先は深い森林地帯で縄文人の支配地であった。やがて北上を再開した弥生人は箱根越えして関東平野に入った。茨城県あたりが弥生人の北限線。東北の森に遮られ、寒冷地なため稲作が進まない土地という事情がある。
これだけをみると、日本列島は東北を除いて大部分が中国の江南や朝鮮半島のDNAを持った渡来民で占められたことになる。少なくとも西日本は中国や朝鮮半島の遺伝子をもった人たちで占められた筈である。
ところが根井正利氏は、「現代人の起源」に関するシンポジウム(1993 京都)で弥生時代以降の渡来人は現代日本人の遺伝子プールにはほんのわずかな影響しか与えていないという研究結果を発表している。
等質性でいえば中国や朝鮮半島は戦乱に次ぐ戦乱で等質性が薄れている。これに比して日本列島の日本人は等質性を保ってきた世界でも珍しい民族だという。
これも私流の解釈だが、高度の稲作技術を持ち、戦に長けた弥生人は少数の渡来民だった。大陸から日本列島を制覇する目的で大挙押し寄せた軍団だったわけでない。だが、一万年に及ぶ平和な時代に慣れ、戦さを知らない縄文人を支配するのにさして苦労をしなかったのであろう。もちろん戦闘はあった。身体に十数本の矢を受けた縄文人の骨が発掘されている。
もう一つは狩猟を主としてきた縄文人にとって、稲作という画期的な生産手段を持った渡来民は、大きな魅力と映った。戦うよりも同化する道を選んだのではないか。支配者は弥生文化をもたらした少数であっても。同化した多数の縄文人によって支えられるという島国特有の文明が日本列島で花咲いたといえる。
”和をもって尊しと為す”という日本固有の伝統文化には、このような支配者の論理と、それを受け入れた被支配者の受容の心が自然に育まれた歴史があったのではないか。この原形は大和朝廷が蝦夷討伐でみせた”俘囚”政策でもみることが出来る。
梅原猛氏は縄文・蝦夷文化に魅せられた人だが、<<稲作は北九州から瀬戸内海沿岸を東進し、肥沃な平野に恵まれた筑紫地方と近畿地方が大きな稲作文明の根拠地となった。そして日本の国造りが始まる。この稲作農業は、縄文文化の影響が強い東の国では強い抵抗にあい、なかなか尾張と三河のあいだが破れなかったが、二百年ほどして、やがて東の国にも伝えられ、ついに紀元二世紀ごろには東北の果てにまでおよんだ。
日本の支配者はこの稲作農民の子孫であり、彼らは土着の縄文人と混血したとはいえ「自分は外来者である」という意識を失わなかった。それが「記紀」において「天ツ神が国ツ神を征服する」という思想になるわけである。>>と述べている。
梅原氏が指摘するように、日本文化は縄文的なものと弥生的なものの二つから成り立っている。支配階級である大和朝廷が仏教など外来文化の導入で積極姿勢をみせる一方で、なお八百万(やおよろず)の神を信奉する多神教が民間で根強く残った。
日本人の二面性は、外来文化を受け入れる積極性と、それを日本風に造り変える特異性を持っている。それが二律背反にならず「和魂洋才」ともいうべき性格を帯びたのは、歴史の中で育まれた日本人の知恵ではないか。”猿真似”が得意な日本と卑下する必要なない。誇るべき日本人の性格ではないか。(杜父魚文庫ブログ)>
杜父魚文庫

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