15132 嗚呼、遠藤浩一君   西村眞悟

一月三日の産経新聞朝刊の「正論」は、遠藤浩一君の執筆になるもので、その「『観念的戦後』に風穴を開けた参拝」と題する論は、「いうまでもなく、政治とは現実との格闘である。」という確固とした観点から、白刃を以て現在の政界の状況をズバリと一刀両断したもので、まことに鋭く秀逸。
 
その切断面からは、「観念的戦後」に群がる愚かな者、幼稚な者、愚劣な者が、その実態通り、愚かで幼稚で愚劣な姿をさらけ出している。
「観念的戦後」とは、これらの者を、「一見、賢そう」に見せる時代である。
つまり、遠藤浩一君は、「我が国の政治が直面する現実」とは何かを明示したのである。ところが、驚くべきことに、観念的戦後の政治は、「政治とは現実との格闘である」にもかかわらず、この「現実」に直面するのを回避している。
彼らにとっては、「日本国憲法と称する文書のなかの虚構と妄想」が「現実」よりも「現実的」なのだ。
 
そして、この何が「現実」か分からない者が、「妙なことを口走って」遠藤君が「失笑した」という。
このような者達が、「民主党政権という悪夢のような現実」を生み出していたことは今や明らかに国民が知っているのに、未だに彼はNHKテレビで「妙なことを口走る」。
しかし、もはや我が国を取り巻く厳しい内外の情勢は、この観念的戦後を許さない。これを続ければ国が滅びる。
今は、集団的自衛権を行使し、「憲法を正して『戦後』に終止符をうつこと」が「すぐれて現実的な目標」となっている。安倍内閣は、この「現実的目標」達成に進まねばならない。遠藤君が失笑した妙なことを口走る者は、これが分からない。
 
従って、遠藤君は、この「世の中は変わったのに、ちっぽけな現状肯定主義に取り憑かれ」取り残されているだけなのかもしれない者の名を挙げ、その上で、そういう「変化に追いつけない連中が連合しようが新党を作ろうが、そんなものは放っておいて現実の政治が粛々と進んでいくのなら、それでいい。」という。
そして、最後に、遠藤浩一君は、「首相の靖国神社参拝は観念化した『戦後』から脱却するための大きな一歩といえる。」と評価して論を締めくくった。
まことに、横25~7行、縦6段の「正論」で遠藤浩一君が述べた論考は、優に一冊の本に相当する。
私は、三日朝、この産経新聞「正論」を読み、さっそく遠藤浩一君に電話した。
私、「本日の『正論』、素晴らしかった、実に鋭い。感銘を受けたよ。今年もよろしく。」
遠藤、「そうですか、ありがとうございます。」
私、「そこで、本年早々、戦後から脱却の大きな一歩が迫っとる。七日に記者会見する予定だが、田母神俊雄が都知事選挙に立候補する腹を固めた。航空自衛隊は『勇猛果敢』といわれる。『支離滅裂』とも言われるがな。たもやん(田母神さんのこと)は、『勇猛果敢』に決断した。十コ師団増設に匹敵するぞ、よろしく頼む。」
遠藤、「そうですか、それはいい、やりがいができます。やりましょうー。」
遠藤浩一君と、このように電話してから、予定をこなし、翌四日に本時事通信で、「遠藤浩一『正論』について」を書き込もうと思った。そのため、三日の産経新聞は、「正論」のページを開いたまま机の横に置いておいた。
すると、七日の記者会見を待たずに、四日の朝刊に、関係者からの取材で分かったとして、「田母神氏が都知事選出馬へ」という見出しで、田母神出馬が報道された。
それで、遠藤君の「正論」に関して書く予定を変更して「都知事に、田母神俊雄が立つ」を書いた。しかし、遠藤君の「正論」は、そのまま机の上に置いたままにしていた。
翌五日の夕方近く、大阪に外出する直前、私の机の横に置いていた遠藤君の「正論」のページが表になった産経新聞が居間の机の上にある。誰かがもってきたのかと見ると、紙面にある写真の遠藤君と目があった。
そこで、再び「正論」を手に取り要所を確かめた。そして、また机の上に置いて車に乗り大阪に出た。
午後八時二分、チャンネル桜の水島 聡社長から電話があり、「遠藤さんが亡くなった」と教えられる。
午後八時六分、遠藤君と同じ拓殖大学教授の荒木和博さんに電話して確かめる。「四日、拓殖大学の新年会で遠藤君に会った。普通の様子だったが、その晩に亡くなった。確からしい。」とのこと。
本日六日、まだ暗い朝六時、配達された産経新聞を見る。一面に、ニコッと笑った遠藤浩一君の写真があり、見出し「遠藤浩一氏 死去 保守派の論客、正論新風賞 55歳」を見る。
嗚呼、やはり、亡くなったのは確かだ。
遠藤浩一君と私は、「自民党よりまだ右と言われた民社党」の仲間だ。同じ思いをもって政界にいた。「観念的戦後」の中での無念な思いも共通している。
民社党が解党したのちは、彼は拓殖大学教授になり、するどい論考で頭角を現し、保守論壇を牽引した。
その間、私は彼からいろいろなアドバイスをもらった。おこがましいことだったが、彼の岸信介を影の主役とした重厚な「政権交代の幻」という本の書評を書かせていただいたこともある。
彼と私は、十歳違うので、私は先輩面をしていたが、教えられるのはいつも私の方だった。彼は、私の国会での質問や拙著に対して、実に適切かつ同志としての思いに満ちた意見を言ってくれた。
 
昨年の九月、彼が主催する拓殖大学に於ける市民講座の講師の役を果たしたとき、彼は、話し終えた私を、「良くできましたよ」と言わんばかりの笑顔でちらりと見てくれた。
実は、昨日五日の夕方、外出前に彼の最後の「正論」が掲載された産経新聞紙上の彼の写真を見たとき、
私は、この時の彼の暖かい笑顔を懐かしく思い出したのだ。そして、その三時間後に、彼の帰天の報に接した。
 若き同志よ、君は戦死したのか、
 戦後からの脱却は、指呼の間にある、
 君の最後の「正論」が、それを指し示している、
 そのとおり、やる、
 心より、ご冥福を祈る。
杜父魚文庫

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