■近代日本が生んだ大ジャーナリスト、思想家の巨人=徳富蘇峰 全百巻もの『近世日本国民史』とその時代背景を克明に追求する
<杉原志敬、富岡幸一郎編『稀代のジャーナリスト 徳富蘇峰』(藤原書店)>
徳富蘇峰は全百巻の『近世日本国民史』を残した。歴史物語の金字塔である。
いまでも織豊時代、徳川家康、そして吉田松陰が文庫にはいっていて、現代人にも愛読されている。記念館は熊本にも神奈川県二宮にも、山中湖にもあり、墓は多磨霊園のほか、各地にある。
昨今は徳富蘇峰研究が進み、また『終戦後日記』(全四巻、講談社)がはじめて日の目を見た。
蘇峰は謎にみちた人生というより、あまりに多彩な像をもつ人物。幕末維新に登場し、明治大正から戦前の論壇を席巻した。戦後パージされたこともあったが、昭和三十年代まで生きた、その言論活動は波瀾万丈だった。
熊本の豪農の倅(せがれ)に生まれ、武士の子供らと渡り合い、青雲の志をいだいて京へのぼった徳富蘇峰は、なんとキリスト教徒として新島襄と深い交友を持つ(もっとも新島はかなりの年上だったが、蘇峰とは「心友」と言って良かった)。
その蘇峰が受洗を返上したことも前代未聞の大事件だが、宗教におおいなる興味を生涯もちつづけたうえ、晩年にはついに新島襄論を書いた。
次第に自由民権思想や同時に国家、国権に惹かれるというアンビバレンツ、一方で自立自尊、個人の尊重を説きながれも、他方では『日本書紀』から来る日本独特の歴史観のもと、国民を鼓舞する歴史物語を量産した。
だから戦後は自身がパージされ、また左翼ジャーナリズムは、吉田松陰らと並べて、民族精神を煽って戦争に加担したなどと蘇峰を罵倒した。
国民新聞を創刊し、日本のオピニオンレーダーとして活躍をはじめる徳富蘇峰は、二度の焼き討ちにもめげず新聞人たらんと欲した。ついに戦災により社屋が喪失し、根津嘉一郎が国民新聞に乗り込むや、彼の手を離れたが、その国民新聞は60年安保直前に復刊され、じつは今日も続いている。
同時代人は蘇峰をオッポチュニストと呼んだこともあった。
本書は蘇峰生誕150年を記念して企画された、総合的に徳富蘇峰を再評価しようという野心的なアンソロジーでもあり、『思想家』「新聞人」、そして「稀代のジャーナリスト」としての巨大な存在を再構築する。
浩瀚である。内容も多彩である。
本書には多くの論文、著作家らの寄稿があるが、巻頭は桶谷秀昭、そして蘇峰研究第一人者だった坂本多加雄の遺作とも言える徳富蘇峰論が収録されている。
編者の杉原志啓と富岡幸一郎の所論は秀逸で、またこの二人に新保祐司をくわえた鼎談も面白く読んだ。
一方で、保阪正康、松本健一へのインタビューがあるが、あまりいただける内容ではない。
評者(宮崎)は学生時代に徳富蘇峰を何巻か読んだが、いまも本棚に所有し続けているのは織田信長から徳川家康にかけてのもの、その文献引用は貴重であり、歴史の証言としての各種出典がきらびやかにして、その文体は血湧き肉躍る活劇風、歴史を語るというのはこういうことか、と納得できた著作ばかりである。
文体は弾むようである。
▼徳富蘇峰の傑作は『吉田松陰』論
さてあまたある徳富蘇峰の作品群のなかで、ひときわ鮮明な光芒を放つのは『吉田松陰』である。
熊本生まれの蘇峰が、なぜ長州藩の教祖的思想家、吉田松陰に惹かれたのか?
じつは吉田松陰の伝記は、死後三十数年を閲した明治二十六年に徳富蘇峰が初めて著したのである。
すでに神格化されていた吉田松陰を論ずるのは時代的環境から、臆するところが多かったのが理由と考えられるが、西郷隆盛も大久保利通も木戸考允も、比較的早くに伝記が現れ、かつ名誉回復は早かった。
一方で坂本龍馬の伝記も国民精神高揚の時代的背景に助けられ世間ではよまれた。にも関わらず吉田松陰伝は、徳富蘇峰が筆をとるまで日本の出版界も差し控えてきた。
いまひとつは、吉田松陰があまりにもカタブツであったため、人生の多様な織りに乏しく、小説になりにくい存在でもあったためで、坂本龍馬や高杉晋作や木戸考允のような艶福家としての貌がなく、酒はたしなんでも女性との波瀾万丈がない人は小説のモデルとして扱いにくい。
ところが徳富蘇峰の吉田松陰は自由奔放、闊達自在、思う様の筆はこびで、神格化されていたカリスマの虚像より、人間としての松陰にいきいきと迫る作品となった。
「仙人」といわれたほどの松陰を自由に論ずるには、それほどの時間が必要であったかも知れず、しかも蘇峰は初版で「革命家」と松陰を定義づけたが、再版以後は「維新先駆者」という位置づけに変更しており、一部研究家の間ではこれを『変節』と言った。愛国主義かまびすしくなると、蘇峰は改版を余儀なくされ、維新の先覚者、愛国者、そして松陰を『先生』と呼び変えた。
評者のみるところ、明治後期の日本の言論界において西洋の書物からの翻訳ブームで、訳語として確立された憲法、議会、法治などの語彙も、そもそも民主主義なるあやしげな語彙も、思想的混乱と時代的混沌を同時に勘案しなければならず、往時の「革命」は、戦後の左翼が好んだ『革命』とはほど遠き訳語ではなかったか、と考えている。
それはともかくとして、蘇峰の松陰論はまことに自由闊達なのである。
蘇峰はこう書いた。「(藤田)東湖の手腕用いる所なく、佐久間(象山)の経綸施す所なく、(横井)小楠の活眼行うところなく、知勇交も困むの極所に際し、かえって暴虎馮河、死して悔いなき破壊的作用のために、天荒を破りて革新の明光を捧げ来るものあり。その人は誰ゾ、踏海の失敗者、野山の囚奴、松下村塾の餓鬼大将、贈正四位、松陰神社、吉田松陰なり」
萩に限らず明治政府の主流は薩長土肥閥、とりわけ長州の顕官らは吉田松陰を神ともしたう雰囲気が残っていた時代に、蘇峰は松陰を「ガキ大将」呼ばわりしている。実像に迫る描写ではないか。
徳富蘇峰は、吉田松陰に決定的影響をもった思想家を三人に絞り込んで、横井小難、佐久間象山、藤田東湖をあげているが、これにも評者、いささかの異論がある。
松陰が水戸遊学のおり、頻繁に通ったのは会沢正志斉であり藤田ではない。佐久間象山には心酔したことが明白だが、横井小難などうだろうか? 横井は徳富蘇峰の父親が、一番弟子だった事実からの過大評価ではないのか。
なぜなら吉田松陰は神国日本のナショナリズムを鼓吹する攘夷思想の熱烈なる信奉者であったが、同時に開国論者であり、まだ同時に武士道を強烈に意識し、陽明学に傾斜していた。この文脈から勘案すれば、横井の学問的業績をべつとして、横井の武士のたしなみには疑問が付きまとうからである。
いずれにしても、本書は徳富蘇峰という巨人の世界を明確に再構築した。
杜父魚文庫
15200 書評『稀代のジャーナリスト 徳富蘇峰』 宮崎正弘

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