15757 ドゴールの言った「知性と本能」が国の生死を分ける   西村眞悟

馬英九政権の台湾が中共と結んだ「サービス貿易協定」に反対する台湾の学生が立法院を占拠し、三十日には十一万人以上が参加する大規模デモが総統府前で行われた。
大東亜戦争に我が国が敗北した後、台湾に「進駐」したのは蒋介石の中国国民党の軍隊だ。その結果、台湾は中華民国となった。
しかし、それまでは台湾は、日本であり住民は日本国民であったことを忘れてはならない。これは、北方領土に「進駐」したソビエト軍によって北方領土は日本であるが「ソビエト(今、ロシア)」とされているのと同じである。
 
台湾に進駐した蒋介石の中国国民党は、台湾を支配し、台湾にある「日本」を排除し日本世代の指導層を「白色テロ」で抹殺し、台湾人に「中国人」であることを押しつけた。
従って、今、馬英九政権に反対している二十歳代の台湾の学生は、もちろん日本時代を知らない世代だ。しかし、彼らは台湾に中共が押し寄せるのを拒否して、中共との協定に反対している。
その理由は、彼らが李登輝総統以来意識されてきた「台湾のアイデンティティー」に目覚めたからだ。
では、何故、学生や若い世代は「台湾のアイデンティティー」に目覚めたのか。その原因は、馬英九にある。
馬が台湾の政権を握ってから、支那人が観光やらビジネスやらで、イナゴのように台湾に大量に押し寄せるようになった。その結果、大量の支那人を目の当たりに見た若い台湾人は、今まで台湾は中国であると教えられていたが、「自分たちはあの支那人と同じではない」と、実物の群れを見て確信したのだ。
 
他方、台湾に来た支那人も、台湾人の秩序や公共心そして礼儀正しさを自分たちとは違うと感じたようだ。
昨年、産経新聞が伝えていたが、その台湾に来た支那人が、「台湾が秩序正しいのは、中国本土では文化大革命で弾圧された中国の漢籍などの古典教育が台湾では続いていたからだ」と台湾の学生に言ったという。
それに対して台湾人学生が「いや違う」と答えた。そして言った。「台湾は日本時代を経験しているからだ」と。
以上の通り。今、台湾で反馬英九の大規模デモを展開し始めた学生運動は、支那とは異なる「台湾における文明の確立」という東アジアの将来にとって重要は転換点となる大きな動きである。
もちろん、我が国の運命にも重大な影響を与える。
この動きを、NHKを初めとする我が国マスコミがあまり報道してこなかったのは、これは、これらNHK等のマスコミが中国共産党におもねっているか、その統制下にあるらだ。我が国のマスコミは、台湾の学生を見習え。
話題を変えて、次は、三十日に第一回が行われた北京の日朝局長級交渉について述べたい。
この度は、一年四ヶ月ぶりの交渉だという。この交渉開始が、二週間前の三月中旬に、十三歳の時に北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの娘さんとめぐみさんのご両親が、ウランバートルで会えたことを切っ掛けとしていることは明らかであろう。
つまり、日本の外交当局者側は、このウランバートルに於ける祖父母と孫の対面を「北朝鮮の誠意の現れ」と受け止め、北朝鮮側は、日本側がそう受け止めるであろうから、これを交渉再開の切っ掛けにしようとしたのだ。
そこで問う。このウランバートルにおける対面は、「北朝鮮の誠意の現れ」なのか。人質をとって立て籠もる強盗犯が人質に食事を与えるのが誠意の現れか。
私は、ウランバートルでの対面を喜んだ。同時に、十三歳の女の子の三十歳代のご両親が、八十歳になるまで娘を拉致し続けており、果ては死亡したと言って娘と会わせずに、その娘の子と対面させることが、これほどまで嬉しい境遇に横田さん家族を陥れている北朝鮮の残虐性を強く感じ、
これを切っ掛けに軟化せずに、油断なく制裁を強化する方向に向かうべきだと判断した。
案の上、日朝交渉初日での北朝鮮の要求は制裁の緩和そして解除である。そして、日本側の局長の伊原さんは、「真摯で非常に率直なやりとりができた」と語った。
この「真摯で非常に率直」とは何か。北朝鮮は言いたい放題言った、ということだ。
そもそも、この交渉は、全体としてどういう事態の中で行われているのか。北朝鮮が、明らかに日本をターゲットとしたノドンミサイルを移動式発射台から日本海に向けて発射し、新型の核爆弾の実験も行うと、うそぶくなかで行われているではないか。
そして、この中での北京会談では日本の堅気の局長に「真摯で非常に率直」、即ち、つまりいざとなればミサイル撃ち込むぞ、いやなら制裁緩和解除(金よこせ)せよ、拉致は解決済みだと言っている。
よって、ウランバートルの対面を含めたこの三月の事態を概観すれば、北朝鮮の態度は、人質を取った強盗と同じだと言える。即ち、北朝鮮は、無法地帯の無法者の態度である。これに対して、こちらは勉強がよくできた堅気の秀才が出ていっていると言うわけだ。
 
そこで、私が、これらこの三月の事態を観て思い浮かべるのは、ドゴールの言葉である。フランスの軍人で大統領を務めたドゴールは、指揮官に必要なものは「知性と本能」であると言った。
その通り、支那情勢、北朝鮮、韓国、そして台湾やロシアの情勢、つまり、来るべきアジアの動乱に対処するに必要なのは、受験の秀才的発想ではなく「知性と本能」である。
 
このドゴールの言ったことが、如何に至言か!次の我が日本が経験した痛烈な体験がそれを裏付けている。
昭和十七年六月五日、我が帝国海軍の空母機動部隊は、西太平洋のミッドウェー攻略を開始する。これが、日本の勝敗を分けた。
この機動部隊は、総司令長官は南雲忠一中将、航空参謀は源田実で、旗艦は空母「赤城」そして、「加賀」、「蒼龍」、「飛龍」の四隻の大型空母を擁していた。
とはいえ、この総司令部の司令長官と航空参謀は、七ヶ月前に真珠湾が軍港として機能するために不可欠な燃料タンクやドッグへの第三次攻撃を中止して無傷なままにして、おっかなびっくり引き返したコンビである。
これに対して、アメリカは我が国のミッドウェー攻略を察知して、空母「エンタープライズ」、「ホーネット」そして、南雲総司令部が無傷にしておいた真珠湾のドックで応急修理を終えた「ヨークタウン」の三隻をミッドウェーに送り出してきていた。
 
六月五日午前7時15分、南雲長官は、艦上爆撃機の兵装を魚雷から対地爆弾に転換することを命じた。ミッドウェーの陸に対する攻撃を優先しようとしたからだ。しかし、
7時28分、洋上の偵察機より「敵らしきもの発見」と来電。
7時45分、南雲長官は対地爆弾への兵装転換を中止し、再度、魚雷への転換を命じた。
この時、空母「飛龍」の第二航空戦隊司令官の山口多聞少将は、旗艦「赤城」の総司令部に対して「直ちに攻撃隊発進の要ありと認む」との発光信号を送る。
しかし、南雲司令長官は、「敵はまだ遠くにいる」との希望的観測に頼って山口少将の要請を無視して兵装転換を続行する。この間、艦上爆撃機は空母から発艦できない。
これが、我が国の運命の分かれ道となった。
赤城」の南雲忠一と源田実の総司令部は、陸攻撃に対しては爆弾を、空母攻撃に対しては魚雷をという「マニュアル」に、この一刻を争う緊急時においても従ったのだ。
確かに、巨大な空母は魚雷でなければ沈まない。この「マニュアル」は正しい。しかし問題は、この時に、この正しい「マニュアル」に従ってよいのか否かだ。これに瞬時に答えを出して決断を促すものは、
「マニュアル」ではなく「本能」であるとドゴールは言ったのだ。
 
そしてその時、「飛龍」の山口多聞司令官は、「マニュアル」から離れて、一刻もはやく、今装備されている爆弾によって敵空母の飛行甲板を破壊して艦載機発着艦不能の「浮かぶドラム缶」にしようとしたのだ。
仮に、南雲忠一と源田実が、この時、山口多聞の発光信号に従っておれば、ミッドウェーで我が機動部隊は敵空母を破壊して勝利していたであろう。
 
しかし、「浮かぶドラム缶」になったのは、我が空母の方であった。
南雲総司令部が、各空母の艦載機に兵装転換をさせている間に、空母「ヨークタウン」から発艦したドーントレス急降下爆撃機群が我が機動部隊上空に達し、直ちに急降下爆撃を敢行して一瞬のうちに「赤城」、「加賀」そして「蒼龍」の飛行甲板が破壊されたのだ。
 
その時、山口多聞司令官は、ただ一隻になった空母「飛龍」で反撃に転じ、敵空母「ヨークタウン」を撃破して一矢を報いた(後に撃沈)。しかし、衆寡適せず夕刻には「飛龍」も爆撃され破壊される。
 
そして、「加賀」と「蒼龍」はその日の日没後に沈没する。
日が変わって六月六日午前2時、「赤城」は我が駆逐艦より発射された魚雷により自沈し、午前9時、「飛龍」も駆逐艦から発射された魚雷で自沈した。
山口多聞司令官は、自沈の際に、退艦を拒絶し、「飛龍」の艦橋に立ったまま悠然として「飛龍」とともにミッドウェーの海に沈んでいった。
しかし、貴重な空母四隻と世界最優秀の多数のパイロットを一挙に闘うことなく失って我が国の敗北への道を開いた総司令部の司令長官と航空参謀は、「赤城」から退艦しておめおめと生き残り、戦後栄達した(南雲忠一はサイパンで戦死)。
以上の通り、ドゴールでなくとも、我が国にも国家緊急時において必要なものは、秀才的マニュアルではなく「知性と本能」であることを悟らしてくれる教訓がある。
そして、アジアの動乱が迫る今こそ、拉致された日本人同胞を救出し、領土を護り、中共や韓国の捏造謀略反日宣伝を破綻させて我が国と民族の名誉を守り抜くために、指揮官と政治家と官僚と国民に祖国への愛に基づく「知性と本能」が必要な時なのだ。
杜父魚文庫

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