16146 「異質のロシア」研究を再興せよ   古澤襄

■産経正論 北海道大学名誉教授・木村汎
ソ連崩壊後のロシアは、民主主義と市場経済を目指し、われわれと変わらぬ普通の国へと移行する。したがって、ロシア研究にはもはや多額の資金を用いたり優秀な人材を投じたりする必要は一切ない・・・。極端にいうと、これが多くの欧米諸国で見られた風潮だった。希望的観測に基づく間違った考えだったと言わねばならない。
 《思い知らされた露の特殊性》
ウクライナ危機は、そのことを完膚なきまでに思い知らせてくれた。他国のどさくさに乗じて軍事力を投入し、電光石火のごとくクリミア半島を自国に編入して平然としている。そのやり方は、ロシアが「普通の国」になっていないことを満天下に示した。
われわれがソ連解体後もロシア研究を真剣に続けていたら、今回のウクライナの悲劇は回避できていたのではなかろうか。
かつてゴルバチョフ、エリツィンという前任者がとろうとした、西欧モデルの導入を峻拒(しゅんきょ)するというプーチン氏の基本的立場は彼がロシア大統領に立候補する段階で既に明確にし、それがプーチン主義の真髄(しんずい)になっている。
プーチン氏は1999年12月末に発表した「世紀の境目にあるロシア」論文でこう宣言している。「ロシアも民主主義を追求する。が、それは欧米型民主主義の猿まねではない。あくまでロシア土着の歴史、文化、民族性に適合した独自の民主主義である」
ところが、われわれは氏が唱えたロシア流民主主義概念の特殊性をさほど気に止めなかった。欧米モデルこそが普遍的な形態で、ロシアも早晩、それを採用せざるを得なくなるとの傲慢な思いに毒されていたのかもしれない。
だとしても、2008年夏、米欧はそんな幻想を矯正せねばならない必要に迫られたはずだった。ロシアが、国連加盟の独立主権国家グルジアの本土深く武力侵攻を敢行したからである。その結果、「ロシアはわれわれとは一味違う国ではないか」と疑うロシア異質論が生まれかけた。
 《警鐘鳴らした専門家らあり》
喉元過ぎれば熱さを忘れる。米欧の大半の指導者はロシアのグルジア軍事侵攻が与えた教訓を、後の対露政策で生かそうとしなかった。オバマ米政権に至っては、ブッシュ前政権下にぎくしゃくしていた米露関係を「リセット(再構築)」することを、外交政策の課題に掲げる始末だった。
ただ、そうした欧米側の忘れっぽさを憂えて警鐘を鳴らし続けるクレムリン・ウオッチャーたちが存在する。代表格はリリア・シェフツォーワ氏だ。彼女はプーチン氏が「外部世界に対しては自らの条件を押しつける」一方、相手方の「ゲームのルールを全く受け入れようとしない」政治家であることを強調してやまない。
同じくロシア生まれの女性でプーチン体制の本質をえぐるのがマーシャ・ゲッセン氏。プーチン政権下での「報道の自由」抑圧に幻滅して、米国移住を決意した。
今回、クリミアの住民投票で編入派が多数を占めることが確実になったとき、プーチン氏がどう出るかが最大の焦点となった。(1)クリミアをロシア領へと直ちに編入する(2)編入しない(3)米欧の出方次第で決める・・という3つの選択肢の中で、私は第1説が正しいと予言し、実際そうなった。
私の手柄ではない。私は世界のクレムリン・ウオッチャーたちの予想を注意深く検討し、「直ちに編入・併合」と記したゲッセン氏の見方が最も説得力ありと判断し、同調したに過ぎなかった。
 《夫とは好対照のヒラリー氏》
2人ともロシアを皮膚感覚で知る専門家だが、他にも傾聴に値する発言をしている米国人女性がいる。ヒラリー・クリントン氏だ。夫のビル氏が大統領当時、ロシアに関し時期尚早の誤った判断をしたのとは好対照である。
クリントン大統領は、先進7カ国(G7)にロシアを加えて主要国(G8)へと再編した張本人である。G7はもともと、自由主義経済と民主主義を標榜する西側先進主要国の集まりであったにもかかわらず、である。ちなみに、この時、橋本龍太郎内閣は強く反対すべきだった。北方領土が依然ロシアの不法占領下に置かれ、日露間で平和条約すら結ばれていない状態だからである。
ヒラリー氏の方は、プーチン氏のウクライナ介入策を目にし、氏をヒトラーと比較する発言を行った。むろん、両人を完全に同一視するのは誤りである。とはいえ、ヒトラーの電撃作戦による領土拡張策の一因が当時、英米仏などの列強がとった「宥和政策」にあることを、改めて想起させた点において有益な発言だった。
クリミアの軍事支配を遮二無二既成事実化しようとする「プーチンのロシア」。それに制裁を科して歯止めをかけることが、G7にとり喫緊の課題である。
そのためにも、そして、今回の危機を仮に乗り越えられたとしても今後、われわれが「異質のロシア」と付き合ってゆかねばならないという意味でも、「ロシア学」の再興が必要不可欠になる。(産経・正論)
杜父魚文庫

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