五月二十五日と五月二十七日について触れたい。
六百七十八年前の延元元年(1336年)五月二十五日(旧暦)、楠木正成ら七百騎が兵庫の湊川で三万の足利軍を迎撃して全員玉砕した。正成享年四十三歳。
三年前の元弘三年、鎌倉幕府が滅亡して建武の中興がなり、後醍醐天皇が隠岐から帰還されるとき、金剛山麓から七千騎を率いて兵庫に天皇をお迎えした楠木正成は、三年後には、桜井の駅で大半の軍勢を息子の正行とともに金剛山麓に帰し、弟の正季ら郎党七百騎で三万の敵足利軍を迎撃する為に兵庫の湊川に向かった。
もちろん、死ぬためである。
楠木正成は、自ら死んで、天皇の国の武士は、何の為に如何にして死ぬかを、同時代と後世に示そうとした。楠木正成は、「武=死」を以て天皇の国に「尊皇の和と秩序」をもたらそうとし、かつ、その志は死なないと確信した。
従って、彼は自決に際し、弟とともに、「からからと笑い」、また、「よに嬉しげなる気色」(太平記)であった。これが、七生報国の志である。
そして、その志は、まさに我が国に於いて死なずに生き続ける。三百六十六年後の大石内蔵助ら赤穂浪士の討ち入り、五百四十二年後の西郷隆盛らによる西南の役、六百三十四年後の三島由紀夫らの市ヶ谷台における自決、 これらは、楠木正成の魂の系譜に繋がる義挙である。
また、二十世紀の我が国の運命をかけた戦場に赴いた日本人を突き動かした魂は、まさに楠木正成の魂でもあった。
明治三十七年三月、旅順港閉塞に向かう広瀬武夫海軍中佐は、「七生報国」と大書して死の海域に赴いている。日露戦争のみならず、その後の大東亜戦争に於いても、特攻隊員のみならず、死地に赴く全ての将兵の心に、「七生報国」の思いが宿った。
百九年前の明治三十八年(一九〇五年)五月二十七日は、日露戦争に於ける我が国の運命を決した日本海海戦の日である。
欧州のバルチック海と黒海からアフリカの喜望峰をまわりインド洋を経て我が国に攻め寄せてきたロシアのバルチック艦隊を、この日、東郷平八郎提督率いる連合艦隊が対馬沖で迎撃して撃滅する。
この海戦で我が国が敗北すれば、我々は、日本人として生まれていない。よって、この日は、真の意味の「海軍記念日」である。
また、真の意味の「陸軍記念日」は奉天会戦でロシア軍に勝利した三月十日である。
私は、本日の五月二十五日は、東京の乃木坂の乃木神社で、楠木正成について語り、五月二十七日には、日本海海戦海域を遙か見渡せる対馬の北端の岬に立ち、対馬の同志と対馬駐屯の陸海空自衛隊の諸君とともに、日本海海戦における日露戦没将兵の慰霊祭に参列する。
さて、本日の朝刊は、東シナ海の尖閣諸島海域(公海)で、我が国の海上自衛隊の情報収集機に対して、中共軍の戦闘機SU27二機が二度にわたって三十メートルまで異常接近したと報じている。
南シナ海で、船でフィリピンやベトナムにしていることを、我が国には戦闘機で仕掛け始めたとも読める。
よって、せっかくSU27を飛ばせてきたのだから言っておく。諸兄姉、この事態への対処は、何処でするのか考えておいて欲しい。
まず、今はやりの「自民・公明の与党内協議」のでするのか。そうではない。
第一に、間に合わない。
第二に、あいつ等では結論が出ない。
従ってこれは、最高指揮官(内閣総理大臣)を頂点とする自衛隊の指揮命令系統のラインで対処する。
ここに前回書いたが、十五日に安倍総理が最高指揮官として自衛権行使に関する決意を明確にした意義があるのだ。
従って、このラインにおいて、「迎撃」の基準であるROE(ルール・オブ・エンゲイジメント)を部隊に徹底させ敢然と対処する覚悟を相手に見せ付けるときがきた。
それを見せ付けなければ、相手はますます付け上がり、行動をエスカレートさせる。よって、今こそ、「戦闘を抑止しようとするならば、戦闘に備えよ」
杜父魚文庫
16158 五月二十五日と二十七日 西村眞悟

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