前々回の本通信で、何をしているのか「知らん」、と書いたが、続いていたらしい。例の「安全保障法整備に関する与党協議会」である。
今朝の新聞に、この協議会が、集団的自衛権に関する憲法解釈変更の閣議決定について、「実質合意」した、と報道されている。そこで、一体何を「協議」していたのか、また何故長引いたのか、この細部に入らず(時間の無駄だから)、その根本原因を指摘しておきたい。
この「協議会」は、結局は「自虐史観のコップの中」でぐるぐる廻っていたに過ぎない。
我が国の安全保障つまり国防に関する「協議会」でありながら、歴史の教訓を踏まえた切実な国防戦略の協議はなく、戦後史観=自虐史観と自衛権=国防の辻褄を合わせる為の協議だった。それ故、我が国の自衛権に「歯止め」をかける協議に終始した。
そして、その「歯止め」で実質合意したという訳だ。よって、ここに国防論は無かったのだ。
では、戦後史観=自虐史観(つまり村山富市談話)と、我が国の国防の辻褄は合うのか?合うはずがない。合うはずがない辻褄合わせをしていたから、時間がかかったのだ。
ところで、戦後史観=自虐史観から導かれる「歴史の教訓」は、次の通り。
「我が国は軍国主義に走り侵略を行った悪い国だったから当然敗北した」、「我が国が軍事力をもてば再び暴走する」、従って、この史観から出てくる歴史の教訓は、村山富市談話に忠実に、「迷惑をかけた諸国に対する配慮を続けつつ、軍備を縮小して平和を願えば我が国は安全である」ということになる。
これでどうして、我が国家百年の大計、即ち、国家戦略を立てられようか。反対に、我が国が国家戦略を立てられないようにするために、戦後蔓延しているのが自虐史観なのだ。
戦後史観=自虐史観のなかでは真の国防は論じられない。これが、この度の自民党と公明党の「協議」によって国民が得た貴重な教訓である。
適切にして具体的な国防戦略は、真の歴史の教訓に基づかねばならない。
イギリスにナチスドイツに対する勝利をもたらした首相チャーチルは、「政治家の使命感は歴史を学ぶことから生まれる」と言った。
また、我が国が明治維新を経て、帝国主義列強の侵略を跳ね返して独立自尊を確保し得たのは、我が国に於いては、近代化の前史である江戸期において、武士階級はもちろん全国津々浦々の庶民に至るまで我が国の歴史に対する誇りがしみ込んでいたからだ(頼山陽の「日本外史」の普及がそれを示す)。
そこで、我が国を取り巻く情勢が、日々厳しさを増す現在、我々は、迫る危機に立ち向かうために、如何にして歴史の実相を実感すべきか。
その為に、私は諸兄姉に、昭和十六年十二月八日に発せられた「米英両国に対する宣戦の詔書」を、今一度謹んで読まれることを願う。
何故、昭和十六年十二月に、宣戦が、「洵に已むをえざるものあり」に至ったのか、詔書にある「中華民国政府、帝国の真意を解せず濫りに事を構えて東亞の平和を攪乱し」の「中華民国政府」を、「中華人民共和国政府」と読み替えて読まれるならば、当時の状況のみならず、現在の危機の本質をも目の当たりに見るが如く得心できる。
昭和二十年九月の我が国の連合国への降伏以降、我が国に進駐した占領軍GHQに迎合し、大東亜戦争を太平洋戦争と言い換えて頻りに「反省する」風潮の中で、小林秀雄のように、「俺は反省などしない」と言い切った人士がいた。
しかし、遂に戦後は、「反省」一色となった。従って、私には、平成に入ってからの二十年余、我が国政治は、「戦後からの脱却」と言いながら、実は「戦後の中」をぐるぐる回っているように思える。
今回の「協議会」がその典型だ。
以下私の経験したこと。平成六年、細川内閣の下で連立与党の国防方針の策定作業があった。民社党の私は、集団的自衛権行使が当然だという主張を展開した。しかし、自民党出身議員と公明党によって集団的自衛権行使は否決された。
平成七年、戦後五十年謝罪決議を村山富市内閣は推進しようとしていた。新進党内の議論で私と同志は謝罪に強く反対した。
私は党幹部に質問した。「国が戦に負けて他国に占領される経験をしてから五十年経って、その戦争に関する決議をするならば、普通の国ならば如何なる決議をするのか」「・・・」
「普通の国ならば、戦は負けてはならない、従って、二度と負けないという決議をするのではないか」「それは困る、日本が勝てば困るじゃないか」
「何故だ」「だって、軍国主義がますます勢いづくじゃないか」
このエピソードの中に登場する人物は今も政界における党幹部である。従って、今の政治も、この度の「協議会」も、このエピソードの延長線上にある。
杜父魚文庫
16442 結局は、自虐史観のコップのなかだ 西村眞悟

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