16597 タケリンを偲ぶ「番町会」    古澤襄

岩手日報論説委員の菅原和彦さんから7月13日付「文学の国いわて」の掲載紙を送って頂いた。道又力氏の連載力作「輝ける郷土の作家たち」は78回を数える。
その昭和戦中篇(3)~大日本赤誠会~で戦時下の作家たちの苦難の生き様を描いているが、武田麟太郎を師と仰ぐ若き作家たちが、東京・番町の武田宅で一同に会した珍しい写真が掲載されている。
珍しいというのは麟太郎の夫人と愛人・藤村千代さん、それに芥川賞作家倉光俊夫夫人の三人が並んで写っているからである。さらに武田夫人の左隣には長男の文章君を抱いた古澤元、右隣には次男の穎介君を抱いた千代さん。さながら麟太郎一家の出陣式を思わせる。
夫人と愛人が並んだ写真には麟太郎の姿はない。母・古澤真喜に言わせると「さすがに麟太郎は照れくさかったのか、写真家の土門拳さんと二人でそそくさと浅草に行ってしまった」。
この写真には続きがある。麟太郎は戦後の活躍を期待されながら敗戦の翌年に肝硬変で急死した。麟太郎の亡き後に東京・中野の千代さん宅に暮れのお酉さまの日に和田芳恵、三島正六、古澤真喜、倉光俊夫、池田源尚、那珂孝平、青山鉞治らが集まって「番町会」という会合を持った。
「番町会」は毎年暮に開かれたが、一九六五年四月二日の古澤真喜の日記をみてみよう。
<31日(3月31日)は武田麟太郎の命日で例年のように千代さんのところに出掛けたが、折悪しく皆旅行中だったり、仕事の都合で、集まったのは那珂孝平さんと私だけ。武田氏が亡くなってもう19年になる。毎年どんなに少なくとも五、六人は集まったのに、ことしはさみしい。こうしていつかは忘れさられていってしまうのかもしれない。どのように感動深かったことも年月がそれを薄め、そしてそれらの人たちが死んでしまえば、何もかもなかったことになってしまうのだろうか。>
一方、高見順を偲ぶ人たちは、東京・浅草のお好み焼き屋「染太郎」で暮のお酉さまの日に集まった。母には悪いが、私は松元真(平林彪吾の長男)と堀江朋子(上野壮夫の次女)の三人で「染太郎」の会合に出た。文章君や穎介君の姿もあった。
昭和15年ごろの武田宅に集まった若き作家の群像写真をあらためて岩手日報紙でみて思うことが多い。
古沢記録 064.jpg
杜父魚文庫

コメント

タイトルとURLをコピーしました