八月は鎮魂の月だと心得ている。クーラーもつけずに窓を開け放して風を呼び込みながら亡くなった人たちの書き残した短文や日記を読んでいる。
作家・池田源尚が「出会いと作品」という短文を書いている。
<たぶん、昭和十八年の夏だった、と思います。その夏のある日、古澤元君は濠端に立って、お濠の水を見ていました。お濠の水には青みどろが浮き、空には飛行機の爆音がしていました。その爆音を聞いているうちに、元君は不意に、無駄だな、無駄だなと、と思った、というのです。
「第一に戦争が無駄だな、と思った。第二に生きていることが無駄だな、と思った。第三に文学が無駄だな、と思った」というのです・・・。>
昭和五十七年の源尚さんの文章だったが、その時は敗戦を察知していた古澤元が親友に吐露した言葉という程度の理解でしかなかった。大伯父の平出英夫官軍大佐のところに出入りしていた古澤元は、前の年の六月五日のミッドウェー海戦のことを知らされていた。
ミッドウェー海戦の敗北は親友にでも言うわけにいかないから、「戦争が無駄だな」という表現をとったのだろう。この二人はすでに敗戦後の日本のことを考えていた。
昭和二十年二月十六日の古澤元の日記。
<今日一日はは小春日和にして、午前は雲なく午後晴る。空襲には疲れた。邀撃に出向く友軍機、始めに十数機、やがて八機となり、薄暮近くになるにつれ四機となり、二機となって衰えゆくを見る。>
若い命が散っていく姿を痛恨の思いで書いていた。
昭和十九年マリアナ諸島のサイパンに上陸した米海兵隊と日本軍の死闘は、七月七日斉藤中将以下3000の守備隊が最期の総攻撃を行いほぼ全滅した。米側はターナー中将が九日にサイパン島の占領を宣言している。だが日本側は大本営発表が十八日。
七月十八日、十九日の古澤元の日記、
<夕刻サイパン全員戦死の発表あり。発表が遅れたことにより、国民志気に悪影響あらん。東条下野の報入る。(十八日)>
<政変ありて、貴顕の往来繁き如し。橋本欣五郎会長、殿下に拝謁す。海軍における米内海軍大将の存在殊に目立つ。
比島より寺内、朝鮮より小磯上京す。寺内より小磯首班となるべしの下馬評高し。
夕刻東条自刃の報入るも未だ不確実なり。(十九日)>
橋本欣五郎のブレーンになっていた古澤元は赤誠会本部で多忙な二日間を送っている。サイパン玉砕によって日本は終戦工作が出来なかったものか。近衛元首相の特使派遣の噂があったが不発に終わっている。
杜父魚文庫
16761 鎮魂の八月 「戦争が無駄だな」 古澤襄

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