妙に目がさえてしまって眠れない。そうこうしている中に明け方の四時になってしまった。二、三日前に孫が遊びにやってきた。聞くまいと思っていたが、二人きりになったので「本郷の学部は決まったかい」聞いてみた。
娘二人の大学進学で干渉して失敗した苦い経験がある。とくに長女には古澤元・真喜夫婦作家の孫で文章力も確かなものがあるので、女流作家の道を歩んでほしいとひそかに願っていた。それが重荷になっていたのかもしれない。文科系に進まずにお茶の水女子大の数学科に進学した。
次女は慶応大学の経済学部に進学、文学とは無縁のマーケッテイングを専攻、大学院修士課程からロイター通信社に入った。そんなに文学の道にこだわるのなら、自分で苦難の道を選ぶべきなのだが、いち早く途中下車してジャーナリストを生涯の道にしたのだから、娘たちから”勝手なオヤジ”と思われても文句は言えない。
高校生の頃である。父の友人だった作家の新田潤のところを訪ねて「小説の文章力だけはつけたつもりだが、何を書くべきか迷っている」と告白した。
新田潤は笑って「それは人生の経験力が不足しているからだよ。焦っても仕方ない」と諭された。
それで一念発起して、高校二年生の時にヨット鉛筆の専務の家に書生となって住み込み、人並みに人生経験を積もうとした。こんな付け焼き刃が役に立つ筈がない。
東大の入試に失敗し、早稲田に席を置いたが大学には行かずに平凡社の歴史事典編集部にアルバイト口をみつけて、人生経験を積もうとした。お陰で大学を出るのに七年もかかった。もっとも当人は大学中退で結構と意に介しなかった。
文学者への道がいかに険しく苦難に満ちたものであるかを身にしみて覚ったのは、高校時代の仲間が大学を最終学部に進み、就職しようとしている時期である。父と母の苦難の生き様を知っていた筈だが、自分で経験して自らの才能の無さを思い知らされた。
後は教師になるか、新聞記者にでもなって文学に近いところで生涯を終えたいと方向転換をせざるを得ない。幸いなことに七年間の無駄飯が役に立って、小学館、東京新聞、共同通信の三社から合格通知を貰った。
結局は共同の仙台支社が最初の赴任地となった。仙台には父の親友だった作家の大池唯雄がいた。幸福堂というレストランでご馳走になった時である。
「いつまでブン屋をやっているのです。安定した職業に安住していたら、ロクな小説は書けない」と厳しく叱責された。まだ記者になって三ヶ月かそこらのことだから面食らった。父親代わりの大池唯雄だったから、ショックが大きかった。
母にそのことを話たら「作家家業は魚屋や八百屋と違うのよ。自分が選んだジャーナリストの道を真っ直ぐ進みなさい」と慰められた。
私の青春時代だけでも、これだけの経験をしている。だから孫がどんな道を歩もうとしているのか、ジジとしては気になるが、それは孫が自ら決めることだと干渉しないと心に決めてきた。
その進学する学部がそろそろ決まる。長女は「成績が抜群にいいから経済学部ならいけると思うよ」とサラリーマンになって欲しい様である。親ととしては当然であろう。でも孫は「大学院にも行きたいし、海外留学も出来たらしたい」と望みは他にある気配をみせる。
「オジイちゃん。希望の学部に入れたら、すぐ電話をするよ」と言ってくれた。そろそろ電話が掛かってくると思うと、気もそぞろで妙に目が冴えて寝付かれない。典型的な82歳のジジ・バカちゃんりんである。地下の古澤元も真喜も笑っているのではないか。
杜父魚文庫
16951 作家家業は魚屋や八百屋と違うのよ 古澤襄

コメント
人生の最期の章がよく書けてます。りっぱな文学者です。ぼくは、孫が昨年結婚し、ひ孫をまってる日々です。嫁さんは、僕たち夫婦にとって、嬉しい存在です。古さんも、そこまで、書き続けてください。