夏が終わりに近づくと、信濃毎日新聞社の友人から毎年のように連絡がくる。「小諸のパブリックを予約したよ。民宿も取った」・・ほかの先約はキャンセルして、小諸のパブリック・ゴルフに行くのが、何よりも楽しみだった。ゴルフの後は民宿で麻雀、一泊した後は中軽井沢まで出て、創業明治三年という蕎麦屋で酒を楽しんだ。
お互いの現役を引退し喜寿を越えてからは年賀状だけの付き合いになったが御嶽山の爆発で旧友を想い出した。小諸といえば浅間山が近い。旧制中学を四年まで上田で学んだので、浅間山と千曲川は校歌でも歌われている。
昭和51年の頃だった。地球物理学者の竹内均・東大名誉教授が「いまいちばん日本で危ない火山はどれですか」との質問に「桜島です。これは、学者の間で意見が一致している」と答えている。
桜島噴火の予知は当たったが、竹内氏は「桜島の次に危ないのはどこですか」という質問に対して「浅間山でしょうね」と迷わず答えていた。信州に縁がある私にとってショキングな答えであった。
東北地方太平洋沖地震から三年経ったが、日本の火山帯が活動期に入ったという不気味な説も流れている。
日本は世界でも有数の火山国なのに、監視に必要な予算や人材が不足しているとの指摘がある。たしかに充実した観測体制は、鹿児島県の桜島や長野・群馬県境の浅間山などに限られるという。それにしても竹内氏が指摘した「浅間山でしょうね」はいまもって大噴火の兆しすらみえない。
気象庁の浅間山火山防災連絡事務所のホームページを時々開いて見ているが、無事平穏な浅間山の写真が鎮座している。大学を卒業する年に同級生や友人たちとテントを背負って浅間山麓を一泊ハイキングをした。山を下りて上田の母の実家に顔を出したら叔父が喜んでくれて、奥座敷で皆にビールを振る舞ってくれた。昭和31年(1956)秋だったろうか。58年も昔のことになった。
浅間山火山防災連絡事務所
〒389-0111
長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉字北浦1706-8
TEL 0267-45-2167
FAX 0267-46-1527
浅間山の噴火予知に関心を持ったのは、天明三年の浅間山大噴火がきっかけとなった。「沢内農民の興亡」を書くので、江戸時代の東北飢饉を調べていたら、古澤家の中興の祖と目される四代善蔵が天明二年に生まれていた。浅間山大噴火の前年だった。
沢内村は天明元年、二年と不作が続き、天明三年には最大の飢饉となった。春から五穀はほとんど実らず、生ワラの穂を半日水につけて刻み、これを蒸して石臼にかけて粉にして餓えをしのぐ悲惨さだった。
天明四年には奥州大飢饉で一〇万人の餓死者を出している。三代善兵衛の時代に富農になっていた古澤家からは餓死者は出ていないが、天明六年、寛政二年、寛政八年、文化五年、文化六年と短い期間に五人の女性が亡くなっている。やはり苦難の歴史の中で犠牲になったのはか弱き女性だったろうか。
沢内村の歴史を調べている中に、明和七年(1770)の夏、村の北方で放射線状の極光(オーロラ)がみられたという資料を発見した。このオーロラ現象は日本全国でもみられている。(想山著聞奇集)人々は不吉な前兆と怖れおののいたが、その記憶も薄れた十三年後の天明三年に浅間山が大噴火を起こした。
噴煙は五〇〇メートルの高さに達し、東南方に広がった。空高く舞い上がった火山灰は太陽を隠したという。その後、一年半にわたって、火山灰の帯が太陽光線を遮り、日本列島の温度を平均で三度下げている。大爆発による死者は1151人。
浅間山大噴火の被害がどんなに悲惨なものだったのか?群馬県吾妻郡鎌原村にはその史実が伝わっている。村の人口570人のうち477人が土石流に飲み込まれて命を失った。火口から12キロの鎌原村だったが、土石流に気がついた村民は村の観音堂の階段を駆け上がって避難した者もいる、
50段の階段で35段まで土石流がきたというから、紙一重で助かった者と命を落とした者が出ている。昭和54年(1979)に観音堂周辺の発掘調査がおこなわれたが、石段下部から女性二名の白骨遺体が発見されている。若い女性が年長者の女性を背負って観音堂へ避難する際に、土石流に飲み込まれてしまったのであろう。
杜父魚文庫
17349 信濃の浅間山は大丈夫なのか 古澤襄
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