17631 中国海軍初の空母「遼寧」にまつわるスキャンダルが発覚 宮崎正弘

■自称「空母の父」=軍出入り山東商人=徐増平が拘束されている
それにしても数々の曰くが付いた、所謂「空母」である。
ウクライナ所属だった出来損ないの鉄艦を買いたたき、大連まで曳航して、十年間、杳として外海に姿を現さなかった。ようやく姿をみせた中国海軍初の空母「遼寧」は、訓練航海のあと、ふたたびドッグ入りして消息を絶った。
もともとソ連が経済的困窮を来して、67%まで仕上がっていた空母の建造を中断し、ウクライナに処分を任せたのは90年代初頭のことである。電気信号系統を取り外し、カタパルト装置を除去し、鉄のかたまり(スクラップ)として処分する予定だった。鉄くずの値段は500万ドルを提示した。
おりしも中国は空母建造を決めていた。1985年に「中国海軍の父」と言われる劉華清がトウ小平の命令一下、空母戦略を立案し、1989年には国家として正式に建造を決定していた。
軍の造船所で空母建造に着手したが、うまくいくはずがない。空母プロジェクトは中断に追い込まれていた。そんなおりにウクライナに鉄艦の元空母ヴァリヤーグが売りに出されることを知ったのだ。
ソ連が建造していた頃の名称はヴァリヤーグ号だった。ソ連時代に「黒海艦隊」の艦船をつくっていたソ連国有企業「黒海造船」は民営化され、資金不足に陥っていた。
買い手の名乗りを上げたのは英国、スペイン、フランス、そしてインドだった。英国の業者は「浮かぶ監獄に改造する」と言った。フランスは「空母ホテル」にして地中海に浮かべるアイディアをだした。
ここへマカオの謎のビジネスマンが登場し、「マカオに浮かべてカジノ・ホテルに改造する」と言った。買値は2000万ドルだった。
香港商人を名乗った男は、徐増平。山東省生まれで、退役軍人。皮革ビジネスであて、香港でホテルも経営し、不動産開発もやっているという触れ込みだった。実際にはおりからの不動産ブームにのって建材をあつかう業者で香港に豪邸を持っていた。
広州軍管区に強いコネがあり、一説に息子は劉延東の娘と結婚したという。劉延東といえば、なく子も黙る政治局員である。真偽の程は未確認。
 ▼マカオのカジノ・ホテルという最初の触れこみは消えて
1998年4月、契約が成立した。マカオでカジノ・ホテルへ流用するというのが表向きの商談の中味だった。
しかし問題は五万トンもの鉄のかたまりを15200海里、曳航してゆく運搬ノウハウだった。強力なタグボート三隻で引っ張り、バランスをとりながら、黒海、ポスポラス海峡、マルマラ海、地中海、ジブラルタル海峡を越えて、アフリカ喜望峰を回航し、インド洋からマラッカ海峡を越えてようやく南シナ海へたどりつくのだ。
3年近い年月が黒海の通過のためにだけ費やされた。NATOの一員であるトルコが通過許可を出さなかったのだ。
2001年11月、ようやくポスポラス海峡を通過、ところがギリシア沖で暴風雨に遭遇し、タグボードが遭難、16名の水先案内人と250名の水兵らはひやり肝を冷やした。
ギリシアの港でタグボードの編成替えを行い、同年12月にようやくアフリカ沖、翌2002年二月にマラッカ海峡を通過し、同年3月、ほうほうのていで大連へ入港したのだった。
運搬費用は3000万ドル。艦の購入資金より高くなった。
以後、大連で艤装工事が開始され、2005年には「事故」で15名の犠牲がでたというニュースも流れた。じつに大連入港から十年の歳月を経て、「空母」が初公開された。当初予定された「毛沢東」号は取りやめとなり「遼寧」と命名された。
初公開をみて、西側軍事筋は密かに笑った。空母とは移動する空軍基地である。遼寧甲板には艦載機がたったの一機(最近、やっとこさ、二機)。速度20ノット、ディーゼルエンジン駆動。「これじゃ、空母の役目は果たせない」と米国軍人が評価するていどのシロモノだった。ちなみに米軍の空母は原子力駆動、速力30ノット、艦載機80-120機である。艦載機は一分ごとに発着艦を行い、敵地攻撃へ向かう。
問題は、ほかにもあった。
自称「空母の父」を名乗った徐増平は、この間にますます軍に取り入って、機材調達などで軍のビジネスに食い入った。巨額の収賄が云々された。
香港に数軒の豪邸をかまえ、ベンツなど十数台を所有し、あげくに福建省厦門を舞台とした空前の密輸事件「遠華事件」や軍汚職事件の谷俊山事件にも徐増平がからみ、当局の取り調べを受けて身柄を拘束された。
自称「空母の父」はこうして自滅した。
杜父魚文庫

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