17961 渡辺一族の結束の歴史と喜美氏の落選    古澤襄

「自分の家族を大事に出来ない政治家が、一族や支持者たちを大切に出来るだろうか」とミッチーの従弟・渡辺幸雄氏に言ったことがある。
これには長い渡辺一族と交友の歴史がある。もう半世紀以上も昔の話になる。幸雄氏と渋谷近くの大橋で下宿住まいをしていた。二人の姉と一緒にいたが、栃木県那須から上京してきた幸雄氏が姉のところに転げ込んで、法政大学に通学していた。隣の部屋が私の部屋。
そこへ幸雄氏の父親が突然やってきた。渡辺家は那須の山林地主、父親・新太郎はそこの長兄だったが、GHQ命令で農地解放が行われたものの山林は手つかずだったから、売るにも売れず、渡辺一族は貧乏のドン底だったといっていい。
下の姉は千駄ヶ谷のパーマ学校に通い自立しようとしていた。
新太郎の弟・喜助の長男が嚆夫、中野の陸軍・中野学校に入り、これも自立の道を探る。喜助も習志野連隊の主計准尉。
次男が後に副総理まで登りつめた美智雄である。喜助が職業軍人だったので、嚆夫、美智雄兄弟は長兄の新太郎のもとで育てられている。兄弟の母親は早くして亡くなっている。幸雄氏からこの渡辺家の歴史を聞かされ、この一族の結束が半端なものではないと知った。

ありし日の渡辺美智雄氏と私

左端が私。その右が嚆夫氏。女性を一人おいて幸雄氏。
新太郎が上京してきたのは、東京の私立大学にいれた幸雄が映画監督になりたいと言っているのを姉たちから聞いて心配してやってきた。夢のようなことを言う幸雄は新太郎の長男、いくいくは渡辺家を継がせ、一族の面倒をみる立場なので、こっぴどく叱られたらしい。
この責任の半分は私にもある。夜な夜な幸雄氏を連れて新宿西口のカード下で焼酎のブドウ割りを飲みながら「オレは売れる大衆小説家になる。幸雄君も売れる映画監督になれ」とケシかけてオダをあげていた。オヤジに叱られてしょげ返る幸雄氏もブドウ割りが回ると「オレはやるぞ」と奇声をあげた。一人っ子の私にとって幸雄氏は三歳年下の弟のようなものであった。
この頃は美智雄氏のことは知る由もない。東京商大(一橋大学)の専門部から学徒出陣したが、敗戦後は行商のようなことをしていたらしい。兄の嚆夫氏も大陸の山東省青島から復員してきた。 
昭和30年頃、美智雄氏は栃木県議会議員選挙に立候補している。幸雄氏は「一族が山林を切り出して選挙運動資金を工面した」と言っていた。ここでも渡辺一族の結束の強さが現れた。
さらには国会議員となった美智雄氏に兄の嚆夫氏が渡辺事務所の秘書という立場で各省庁の応接を一手に引き受けている。私は幸雄氏を介して嚆夫氏とも親しくなった。映画監督になると息巻いていた幸雄氏は、父親が遺してくれた山林と那須の温泉権利を元手にして北関東一の温泉別荘の開発業者になっていた。
儲け仕事というよりは、美智雄氏の政治運動を助ける生き様に徹していたから、那須の山中に造った別荘に各省庁のめぼしい中堅官僚を集めて勉強会を頻繁に開いていた。私も呼ばれて何度か参加した。
美智雄が亡くなって喜美氏が地盤を継いで国会議員になった。だが、喜美氏からは強烈な渡辺一族の絆というものを感じたことはない。「政策新人類」の一人として、マスコミからもて囃されたが、血の滲むような苦労をした美智雄氏や嚆夫氏とはちょっと違うという印象を持った。
「自分の家族を大事に出来ない政治家が、一族や支持者たちを大切に出来るだろうか」と幸雄氏に言ったのはそのことである。だが、幸雄氏は「兄貴やオレたちの時代とは違うよ」と喜美氏を庇った。私が気にしたのは、喜美氏のまゆみ夫人の影響力が強くなって、相対的に渡辺一族の絆が薄くなった懸念があったからである。嚆夫氏も渡辺事務所から去った。風の噂ではまゆみ夫人とも別れたという。
美智雄氏の当時は一〇万票以上を集め「渡辺王国」とも呼ばれる強固な地盤だったのが、今度の選挙では半減している。
旧渡辺派を継いだ江藤・亀井派からも退会し、やがて自民党を離党。みんなの党を立ち上げたが、江田憲司幹事長と衝突、幹事長の後任に起用した浅尾慶一郎氏とも喧嘩別れ。
維新の会の橋下徹代表は、「いろんな意味で国政に刺激を与えている。説明責任を果たした上で戻ってきてもらいたい」と、いうが、喜美氏とは確執があって解消していない。
喜美氏のいい面を評価することに吝かではないが、一番大切な地元の一族や支持者たちを大切に扱う点で違和感が残る。本人は捲土重来を期しているのだろうが、その道は険しいと言わざるを得ない。
杜父魚文庫

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