現代史家・田々宮英太郎さんが亡くなって10年の歳月が去ろうとしている。戦前の軍事史に造詣が深い田々宮さんだったから、教えを受けることが多かった。
とくに昭和天皇と皇弟・秩父宮の相克について田々宮さんは詳しかった。秩父宮贔屓と言っていい。
鎮魂の思いを込めて田々宮さんの「昭和秘史 秩父宮と麻布三連隊」を杜父魚ブログに連載したのが、昨年の11月。それが年の瀬も押し迫った12月27日のブログで多くの読者から読まれている。それは二・二六事件の裏話でもある。
あえて田々宮さんの「昭和秘史 秩父宮と麻布三連隊(3)」を再録した。
二・二六事件に連座して刑死した北一輝は私の女房の母・ムツの従兄。また俳優・丹波哲郎の亡妻・貞子とも血が繋がっていた。岸信介氏も商工官僚時代に東京・大久保百人町にあった北一輝の家を訪ねていた。ムツは岸さんにマヨネーズ料理を振る舞ったそうな。
秩父宮も二・二六事件の前に背広姿で大久保百人町の北一輝の家を訪ねていた。このあたりの昭和秘史について田々宮さんは滅法詳しかった。
■昭和秘史 秩父宮と麻布三連隊(3) 田々宮英太郎
そこで推測に浮かぶのが西田税(つとむ)という人物である。二・二六事件では北一輝とともに処刑されたが、秩父宮とは士官学校同期の三十四期生で知遇を得ている。あたかも大正十一年七月二十一日、卒業を目前に控え校庭兜松の付近で、数名の交友同志とともに秘密の会見をもったのである。
その模様の一端を西田は回想録に書いている。
余は茲に於いて、同志団結の経過、猶在社との提携、日本国内外の形勢、亜細亜の現状等を諭述し、特に国内の思想、運動等を一々立証進言した。そして日本は速やかに改造を断行せずんば遠からず内崩すべきこと、日本は単に自己の安全の為めのみならず、実に全世界の奴隷民族のために・・亜細亜復興のために・・選ばれた戦士たることを力説した。(「戦雲をたなびく」)
秩父宮と西田税の思想交流は、既にして始まっていたのである。
越えて昭和六年十一月二十八日、陸軍大学校を卒業された秩父宮である。同三十日から麻布三連隊第六中隊長として勤務されている。
五・一五事件の勃発は昭和七年五月十五日だが、犬養毅首相が暗殺され、国家改造運動が表面化する第一撃だった。皮肉にも事件のとばっちりで、革新陣営の仲間から狙撃されたのが西田税である。風雲の急を告げる政治シグナルでもあった。
奇跡的に快癒した西田であるが、いち早く計画したのが、秩父宮を通じ天皇に建白書を奉呈することである。西田は社会的には市井の一浪人に過ぎない。当時にあっては危険きわまる計画であった。建白書の内容は
(注・前文省略)政党政治家は国家百年の大計を捨てて、目前の党利党略に抗争を事とし、財界は皇恩を忘れて私利私欲に余念がありません。近年の経済不況によって、一億国民の大多数は塗炭の苦境に呻吟いたしております。洵に餓民天下に満つと申しても過言ではありません。
天下万民の仁父慈母に在します聖上陛下におかせられましては、速やかに昭和維新の大詔を煥発あらせられ、内は百僚有志の襟を正さしめ、財界の猛省を促し、上下一体となって国利民福の実をあげ、
外に向かっては国交の親善を増進して、大いに皇威を発揚し、以て帝国興隆の基を築かれんことを、草芥の微臣、閣下にひれ伏して、慎んで奏上仕ります。(須山幸雄「西田税 二・二六への軌跡」)
要は「昭和維新の大詔」を発して、国家改造に踏み出して欲しいという進言である。西田にとっては、北一輝の「国家改造案原理大綱」の内容が想定されていたのかも知れない。
ともあれ、この建白書は麻布三連隊の同志菅波三郎・安藤輝三両中尉の連携により、辛くも秩父宮に届けることに成功するのである。
ところで、この頃のこととして、天皇と秩父宮との間で激論あったことが「本庄日記」に遺されている。
十月事件(注・昭和六年十月二十七日)の発生を見る等特に軍部青年将校の意気熱調を呈し来たれる折柄、ある日、秩父宮殿下参内、陛下にご対談遊ばされ、し切りに陛下の御親政の必要を説かれ、要すれば憲法の停止も亦やむを得ずと檄され、陛下との間に相当の激論あらせられし趣なるが、その後にて陛下は侍従長(注・鈴木貫太郎)に、祖宗の威徳を傷つくるが如きことは自分の到底同意し得ざる処、親政と云うも自分は憲法の命ずる処に拠り、現に大綱を把持して大政を総攬せり。
之れ以上何を為すべき。また憲法の停止の如きは明治大帝の創制せられたる処のものを破壊するものにして、断じて不可なりと信ずと漏らされたりと、誠に恐懼の次第なり。
内容から見て、建白書を天皇に伝達された頃の激論だったのではないかとも想像される。そこに見られるものは何か。秩父宮は革新をめざす進歩派に対し、天皇は何と伝統に安住する保守派であることか。両者思想のコントラストが、そこに凝縮された感がある。
それにしても天皇の固持する立憲君主論は建前であっても、実際には骨抜きにされたり歪曲されている。二・二六事件、日中戦争、太平洋戦争などの重大な局面にあたり、建前はいく度となく崩されている。
敗戦と亡国への過程には、そのことを証する挙措が少なくない。
宮廷記者河原敏明は述べている。
天皇と秩父宮は気性や性格が対照的で、幼少のときから意見の相違や対立がままあり、あまり親しいとはいえなかった。
かつて兄宮を”鈍行馬車”と評したように、俊敏で豪気な秩父宮には、”ゆっくりのんびり”で、「食事に一時間もかかるような」兄宮を、内心軽侮する気持があったようだ。成績も、宮は陸士、陸大でトップクラスだった。(天皇裕仁の昭和史」)
思想的な兄弟の相克対立は、必ずしも偶発的なものだったとは言えないようである。その噴出とも見られるものが二・二六事件への対応処理であった。兄が弟をねじ伏せ構図が、その鎮圧と政治裁判に露呈されている。事件そのものへの処置はともかく、革新の思想まで否定弾圧される謂れはない。その点、秩父宮に憤懣が無かったわけではあるまい。
秩父宮の逝去は昭和二十八年一月四日で、五十歳と六ヶ月の生涯だった。特に昭和十五年以来の長期療養生活中、天皇はただの一回も見舞っていなかった。
この機微について河原敏明記者はのべている。
秩父宮の胸奧にひそかにひそむ憤懣がどれほどのものだったかが分かろうというものかである。
葉山から藤沢までは、わずか十キロ余にすぎない。いわば目と鼻のところで、天皇はその間、海の微生物の採集や生態研究、ときには水泳や近くの野に植物観賞に出掛けたりした。
それでいて、七月十八日、宮家の見舞ったのは、皇后一人だけ、それも初めてで終わりだったというのは、一般庶民には考えられないことである。
実は秩父宮が頑なに、断りつづけていたのだという。
秩父宮と麻布三連隊将校との思想交流については、もう一つ重大な秘密があった。
「月刊ペン」(昭和四十七年三月号)に長谷川義紀氏の「北一輝と三井財閥」という評論がある。そこに載ったのが右翼浪人・原田政治の談話である。
北について奧の座敷に入った。こちらは写真でみて知っている秩父宮がおられる。背広だった。西田もいる。北は秩父宮と向かいあわせにかけ、それから秩父宮のこちらに青年将校が・・私は西田は知っているが・・二・二六事件に関係した軍人は一人も会ったことはないし、知らないんです。
昭和九年か十年の桜の時機、当時大久保百人町にあった北一輝の家を訪ねた原田が偶然立合うことになった。
驚いた私は、原田氏を港区西麻布の自宅に訪ね、事実の有無を確かめたものである。秩父宮はまぎれもなく、北一輝宅を訪ねられていることを検証することができた。
秩父宮の革新思想への熱意は、北一輝訪問にまで成熟していたことを物語るものだろう。同座していた将校が安藤輝三大尉だったのは想像にかたくない。(2013.11.05 Tuesday name : kajikablog )
■「ソバとは何か」と秩父宮がご下問 古澤襄
田々宮英太郎さんの「昭和秘史 秩父宮と麻布三連隊」は好評のうちに第四巻で終わる。二〇〇四年に九十五歳で亡くなった田々宮さんだったが、その前年の遺作である。
昭和天皇に対する田々宮さんの評価は、菊のカーテンの中で重臣と軍部に操られた人と厳しい。皇弟の秩父宮は大東亜戦争の開戦時に「この戦争は負ける」と主治医の寺尾殿治博士に漏らしている。
イギリス留学の経験があって、1937年にイギリスのジョージ6世の即位式に出席、その後日英協会、日本スウェーデン協会の総裁。一貫して戦争拡大政策に批判的であったので、田々宮さんは国民人気が高い秩父宮が肺結核にならずに健在であれば、日米戦争は避けられた説をとった。
皇弟が陸軍幼年学校に入学するに際しては、陸軍上層部は一般の士官候補生と同じ扱いをする決定をしている。昭和天皇が菊のカーテンの中で摂政宮として育てられたのに対して、最初から一般人の中で幹部将校の教育を受けている。
陸軍士官学校、陸軍大学校の成績は抜群で任官した後は兵隊思いの上官のエピソードがあまたある。弘前連隊の大隊長になって赴任、北海道大演習に際しては、岩手県沢内村の佐々木吉男二等兵が看護卒として秩父宮付きとなった。
「北海道はソバの産地です」と申し上げたら「ソバとは何か」と大隊長から聞かれて説明に苦慮したと言っていた。弘前に帰営したら大隊長室に呼び出され「ソバを食べにいく」と告げられ、馬上の秩父宮を追いかけてソバ屋に案内した。
沢内村の助役になった佐々木氏は、このエピソードを楽しそうに語り、秩父宮に対する敬慕の心を隠さなかった。東北出身の兵は秩父宮に心酔している。
行軍で雨がくると、「外套着用」と命令し、自分はズブ濡れになって行軍の先頭に立った。落後した兵の背嚢を背負ってやったこともあると佐々木助役は遠くをみる眼をして語ったこともある。
私の妻の母は北一輝の従妹。佐渡の女学校を出て東京の北邸にいたことがあるが、戦前の革新官僚だった岸信介氏が北邸を訪れていた。こんど初めて秩父宮も背広姿で北邸に訪れていたことを知った。世間は広いようで狭いという思いを深めている。(2013.11.06 Wednesday name : kajikablog)
■義姉が大切にしていた北一輝の人形 古澤襄
今日は11月1日、10月中に信州か東北の温泉に行きたいと思っていたが果たせない。骨髄腫は身体の一部に痛みが走るが、温泉で温めていると痛みが嘘のように和らぐ。
10月は初旬から腰にチクチクと痛みが走っていた。以前は腕や手の関節に痛みが走ったが、温泉で温めていると消えてしまった。温めるだけなら自宅の風呂でもいいのではないかと、秋も深まったので連日、風呂を沸かしていたが、あまり効き目がない。。
10月25日未明に妻の実家から「お姉さんが伊豆の病院で亡くなった」と知らせてきた。ガンで通院しながら治療を受けていた義姉だったが、20日から入院して治療を受けていた。
突然の知らせで女房を6時前に駅まで送り、自分も追いかけて伊豆に行く準備をしていたらズキンと腰に痛みが走ってしばらくは立ち上がれない。ギックリ腰と似た症状だが、自分では骨髄腫の症状が出たと分かる。
伊豆には行かずにベッドで伏せるはめとなったが、午後になると痛みが和らいできた。風呂を沸かして長湯をしながら、二回も三回も自宅で温泉?治療。翌日、妻が疲れた表情で戻ってきた。
義姉は献体の登録をしていたので、伊豆の病院から浜松医科大学病院に送られた。私たちに迷惑をかけまいと思っていたのであろう。お骨が戻ってくるのは三年後だという。
割り切れない気持ちが残るが、義姉のことを思いながらパソコンを叩いている。義姉が生まれたのは昭和五年。伯父の北一輝がガラス箱に納まった人形を姪のために贈ってくれた。それを伊豆のマンションの床の間に飾ってある。
長女がマンションの片付けに行くので、義姉が大切にしていた北一輝の人形だけは私が預かろうと思っている。いつの間にか腰の痛みが和らいでいる。腰に巻いたサポーターが役に立ったのかもしれない。
■遺された北一輝の人形 古沢襄
妻の姉・凱子さんは伊豆で一人住まい。夏に愛犬チロを連れて二泊したことがある。その夜、ガラス箱に納められた人形が気になって、なかなか寝つかれなかった。何となく不気味は感じを与える。朝になって「人形が気になって眠れなかった」といったら「北の伯父さんから貰ったのよ」と姉は言った。
北一輝・・・波乱の生涯を送った人である。佐渡島で生まれ、明治三十九年(1906)に処女作『国体論及び純正社会主義』を発表、その後、宮崎滔天らの革命評論社同人と知り合い、交流を深めるようになり、中国革命同盟会に入党、以後革命運動に身を投じる。この経験を『支那革命外史』として出版している。
大正八年(1919)に書いた『日本改造法案大綱』は昭和維新を唱えた二・二六事件の青年将校の村中孝次、磯部浅一、栗原安秀、中橋基明らに影響を与えたと言われている。二・二六事件の理論的首謀者とされ、愛弟子の西田税とともに処刑された。
かつては右翼思想家として評価されることが多かったが、『国体論及び純正社会主義』は社会主義者の河上肇や福田徳三に賞賛されていた。
『日本改造法案大綱』はクーデターと憲法停止が特色と見られているが、それはあくまで過渡的なものであり、強権による改革の後には、社会民主主義的な政体の導入を想定していた。
こういった点は戦後のアメリカによる日本占領政策と共通する。このように北は単純な国粋主義者とは括れない側面をもっている。また、政治家の岸信介は、北の「国体論」などから強い影響を受けていたという。<ウイキペデイアを参照>
長女の凱子さんや次女の妻・恵子を産んだ母・ムツは、北一輝の従妹であった。佐渡から上京して北宅の台所を一人で切り回している。その後、ムツが結婚して長女の凱子さんが生まれた時に人形がお祝いで北一輝から贈られたという。
人形から不気味なものを感じたのは、二・二六事件で銃殺された北一輝の怨念がこもっているからではないか。処刑された青年将校たちは「天皇陛下万歳!」を叫んで銃殺されている。だが北一輝は一言も発せずに銃弾に倒れたという。
この人形がわが家の居間にガラス・ケースに納められて鎮座している。北の数少ない遺品といえよう。(杜父魚ブログ 2006.09.07 Thursday name : kajikablog)
杜父魚文庫
18058 昭和秘史 昭和天皇と皇弟・秩父宮の相克 古澤襄

コメント
麻生さんが昭和天皇と弟君たちとは母親が違うと、余計な事を書いていたのを思い出しました。真実かどうかは不明ですが。。。