18085 松井須磨子の末裔から「梅みぞれ」    古澤襄

保守政界の女帝の電話の後に信州の松井須磨子の末裔から電話。
「信濃の梅酒”梅みぞれ”を送っておいたわよ。お正月に娘さんたちも来るでしょう。リキュールだから、よく振って飲ませてあげなさい」
末裔は70歳なった筈。一回り年下の従妹だが、小学校に入る前から知っている。子供の頃から美人になりそうな自慢の従妹。それもその筈。大正時代の新劇・名女優だった松井須磨子(本名、小林正子)の末裔である。
松井須磨子といっても知る人は少なくなった。島村抱月と恋におち、抱月がスペイン風邪で急死すると、二ヶ月後に芸術座の道具部屋で縊死して果てた。一九一九年一月五日のことである。
彼女が歌った主題歌『カチューシャの唄(復活唱歌)』(抱月作詞・中山晋平作曲)のレコードが二万枚以上を売り上げる大ヒットとなって、須磨子は日本初の歌う女優となった。
もっとも末裔から唄を聞いたことはない。酒造会社の大女将になって閑にまかせて温泉めぐりの結構な身分だから、松井須磨子とはチト違う。従妹が酒屋に嫁したので、日本酒だけは不自由しない。最近は酒量がめっきり落ちた私だから、日本酒よりも信州の野沢菜の漬け物の方が良いのだが、それを注文するのも遠慮している。
お焼き・・市販のお焼きはどうも口に合わない。信州・上田の母の実家は商家だったから夏のお盆が来ると、女中さんたちが茄子の油いためで信州味噌であえた具のお焼きを作ってくれた。母も見よう見真似でお焼きを作ってくれた少年時代が懐かしい。
野沢菜も古漬けになったら、油いためで信州味噌であえると美味しい。やはり年が明けたら従妹に野沢菜を注文しようとひそかに考えている。
■松井須磨子=長野県埴科郡清野村(現・長野市松代町清野)に士族小林藤太(旧松代藩士)の五女(九人兄妹の末っ子)として生まれる。数え年6歳の時、上田町の長谷川家の養女となり、1900年上田の尋常小学校を卒業する。しかし養父が亡くなったため実家に戻る。実家に戻った年、実父も亡くなった。数え年17歳の春に上京する。
1903年親戚の世話で最初の結婚をするが、1年で離婚している。この頃から平凡な日常から脱却したいと思うようになり女優を志す。
1908年同郷の埴科坂城町出身の前沢誠助と結婚する。東京高師地歴科を卒業した前沢は、その年の11月に「東京俳優養成所」の講師になり、日本史を担当した。
1909年、坪内逍遥の文芸協会演劇研究所第1期生となる。家事がおろそかになることも多く、1910年10月、前沢と離婚。
1911年、『人形の家』の主人公ノラを演じて認められ、1913年、島村抱月と芸術座を旗揚げし、『復活』(トルストイ原作、島村訳)のカチューシャ役が大当たりし、人気女優となった。彼女が歌った主題歌『カチューシャの唄(復活唱歌)』(抱月作詞・中山晋平作曲)のレコードも当時2万枚以上を売り上げる大ヒットとなった。このことから、須磨子は日本初の歌う女優となった。
だが、1917年に発売したレコード『今度生まれたら』(北原白秋作詞)では、歌詞の中にある「かわい女子(おなご)と寝て暮らそ」の部分が当時の文部省により猥褻扱いされ、日本における発禁レコード第1号ともなってしまった。
1918年11月5日、スペイン風邪で島村が病死すると、2ヶ月後の1919年1月5日、芸術座の道具部屋において自殺(縊死)した。
島村と不倫関係にあった彼女は、島村の墓に一緒に埋葬されることを望んでいたがそれは叶わず、彼女の墓は長野市松代町清野の小林家墓所(生家の裏山)に、また、新宿区弁天町の多聞院には分骨墓がある。(ウイキペデイア)
杜父魚文庫

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