大晦日の恒例となった紅白歌合戦。夜討ち朝駆けで家族との団らんがなかった政治記者の当時に、せめて二人の娘たちと炬燵で大晦日の夜は紅白歌合戦を楽しむ様にしていた。
しかし娘たちが大学生になると紅白歌合戦離れ、それ以来、紅白歌合戦を観ることもなくなった。私も大晦日には中国の歴史書「史記」を耽読することにしている。
清王朝史とドイツ近代史のチャンポン史を専攻したので、中国4000年の歴史には関心がある。だが共産中国の覇道には批判こそあれ深入りするつもりはない。4000年の歴史の中で共産中国史はほんの一瞬と冷めた目でみている。
「史記」を編纂した司馬遷が歴史家として優れているのは、勝者の歴史だけでなく敗者の歴史にも光を当てている点である。「史記」の成立年代は紀元前91年頃といわれる。
シベリアのバイカル湖には二度訪れた。日本人と変わらないブリヤート人に触れて帰国後、護雅夫・東大名誉教授の論文を読みあさり、古代トルコ民族史に思いを馳せる日々が続いた。
旧制第一高等学校の東洋史参考書として用いられた白鳥清編「東洋史概説」(昭和五年)は、東洋史といえば支那史だったのをインド史、北方民族史、蒙古史まで広げた初めての概説書。護雅夫氏の難解な論文を読み解くうえで恰好の参考書となった。
ここに突厥の名が出てくる。突厥は外蒙古に広がった勅勒(→鉄勒)と同じ人種、古代トルコ民族の末裔である。突厥が興隆した時期には支那は斉(北斉)、周(後周)の二王朝時代になるが、斉は周によって滅ぼされている。白鳥氏の「東洋史概説」には上古・北方民族の付表が六枚添付されている。
第一図に「漢代亜細亜形勢図」に北方民族国家の丁零、堅昆、匈奴の名がある。第二図「三国鼎立時代形勢図」にはバイカル湖周辺に高車の名がある。いずれも、古代トルコ民族の末裔。
これらの北方民族はまだ文字を持っていないので、漢書から概要を知るしかない。だが司馬遷は漢の宿敵であった匈奴を始めとする周辺騎馬民族や蛮族に対しても、当時の漢の価値観から論評することをあまりせず、基本的に事実のみを淡々と書くという態度で臨んでいる。
トルコのイスタンブル大学やソ連のモスクワ大学で客員教授を務めた護雅夫氏は古代遺跡や文書を読み解き、漢書から一歩進めた北アジア民族の興亡史について多くの論文を遺している。
■史記
『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。正史の第一に数えられる。二十四史のひとつ。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。
「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る紀伝体の歴史書で、叙述範囲は伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までである。このような記述の仕方は、中国の歴史書、わけても正史記述の雛形となっている。
日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。
成立過程=司馬遷『史記』のような歴史書を作成する構想は、司馬遷の父司馬談が既に持っていた。だが、司馬談は自らの歴史書を完成させる前に憤死した。司馬遷は父の遺言を受けて『史記』の作成を継続する。
紀元前99年に司馬遷は、匈奴に投降した友人の李陵を弁護したゆえに武帝の怒りを買い、獄につながれ、翌年に宮刑に処せられる。この際、獄中にて、古代の偉人の生きかたを省みて、自分もしっかりとした歴史書を作り上げようと決意した。紀元前97年に出獄後は、執筆に専念する。
結果紀元前91年頃に『史記』が成立した。『史記』は司馬遷の娘に託され、武帝の逆鱗に触れるような記述がある為に隠されることになり、宣帝の代になり司馬遷の孫の楊惲が広めたという。
唐代に司馬貞が『史記索隠』で『竹書紀年』などを注釈をあらわした際に、司馬遷が叙述をしなかった五帝時代のひとつ前の時代である三皇時代について書いた「三皇本紀」と「序」が加えられた。
思想的背景=『史記』に貫かれている思想は「天道是か非か」であると言われている。天の道、すなわちこの世に行われるべき正しき道が本当に存在しているのかどうかということである。
例えば列伝の最初である「伯夷列伝」で、義人であるはずの伯夷と叔斉が餓死という惨めな死を遂げることに対しての疑問である。これは司馬遷自身が、李陵を弁護したと言う正しい行いをしておきながら宮刑と言う屈辱的な刑罰を受けたことに対しての悲痛な思いが根底にあると思われる。
司馬遷が『史記』を執筆した時代は、武帝により儒教が国教化されつつあった時代である。そのため、孔子については、諸侯でないものの、世家の中に書かれている。
『史記』の記述は儒教一辺倒にならず他の思想も取り入れている(司馬遷自身は道家に最も好意的だとも言われている)。
これは、事実の追求という史書編纂の目的において生まれたことであろう。反秦勢力の名目上の領袖であった義帝に本紀を立てず、当時の実質的な支配者であった項羽に本紀を立てていることや、呂后の傀儡であった恵帝を本紀から外すと「呂后本紀」を立てていることも、こういった姿勢の現れと考えられる。
叙述の対象は王侯が中心であるものの、民間の人物を取り上げた「遊侠列伝」や「貨殖列伝」、暗殺者の伝記である「刺客列伝」など、権力から距離を置いた人物についての記述も多い。
また、武帝の外戚の間での醜い争いを描いた「魏其武安侯列伝」や、男色やおべっかで富貴を得た者たちの「佞幸列伝」、法律に威をかざし人を嬲った「酷吏列伝」、逆に法律に照らし合わせて正しく人を導いた「循吏列伝」など、安易な英雄中心の歴史観に偏らない多様な視点も保たれている。
さらに、漢の宿敵であった匈奴を始めとする周辺騎馬民族や蛮族に対しても、当時の漢の価値観から論評することをあまりせず、基本的に事実のみを淡々と書くという態度で臨んでいる。
儒教が主導権を握った後は、司馬遷のこうした姿勢はしばしば批判の対象とされた。例えば班彪は『漢書』の中で、司馬遷が遊侠や貨殖といった人物を史書で取り上げたことや儒教を軽視して道家に近い立場をとったことを批判すると、『文心雕龍』では女性を本紀に立てたことが非難されている。
『史記』を一種の悪書と見なす視点はかなり早くからあったようで、例えば『漢書』の「宣元六王伝」には、前漢の成帝の時代に楚王・劉宇が来朝して『太史公書』を求めたものの、「『太史公書』には昔の合従連衡や権謀術数のことが詳しく書かれており、諸侯に読ませるべき本ではない」という意見が出て、結局楚王の申し出は許可されなかったことが記されている。
また、蜀漢の譙周は、史書の編纂は経書にのみ依拠すべきであるのに『史記』が諸子百家の説を用いたと非難すると、『古史考』25篇を著して経典の所説を遵奉して『史記』の誤謬を正すものとした。劉知畿の『史通』古今正史篇によれば、唐代において『古史考』が『史記』と並んで広く読まれていたと記している。
更に後世において史漢(『史記』と『漢書』)の比較評論が、多くの知識人によって行われている。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
杜父魚文庫
18086 司馬遷の「史記」を大晦日に読む 古澤襄

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