18092 書評「朝鮮問題と日清戦争」    宮崎正弘

■雄渾に描き出した日清戦争の「戦前」「戦中」「戦後」外交史
欧米の資料から通説を打破し、新視点を劇的に提示した力作登場。
  
<渡邊惣樹『朝鮮問題と日清戦争』(草思社)>
またまた論壇を震撼させる大作、問題作を渡邊氏がものにされた。
この本で扱われるテーマは日清戦争を挟んでの朝鮮半島とシナの歴史、日本との関わり方。とりわけ戦後日本の怪しげな歴史学者があたかも日清戦争が「日本の侵略」であったかのような左翼の政治宣伝臭の強い学術書や新書版を俎上の載せながら、それらの虚説をばっさりと斬る。
なにが問題かと言えば、日清戦争へ至る過程を視野狭窄の日本史学者がこれまで提示してきたが多くの論点に無数の間違いがあることだ。
それも西郷さんの「征韓論」から説き起こし、福沢諭吉らが中心だった金玉鈞の朝鮮独立支援と朝鮮への訣別をろくに文献も読まずに帝国主義などと批判する浅薄な左翼アカデミズムを、別の手法で木っ端みじんとしている。
ハースト家のイエロー・ジャーナリズムがでっちあげた「旅順大虐殺」に関しても科学的にあり得ないことが論破されている。
渡邊氏が提示した新視点はアメリカ、英国、そしてフランス、露西亜の動きを同時に追いかけての複合的アプローチである。この複座から近代をみると、これまで解けなかった多くの近代史の謎が霧が晴れるように解けてゆくのである。
すなわち、朝鮮の蒙昧を覚醒させ、開国させたのは日本なのだ。
その背景には英国のロシア南下予防という国策があり、やがて日英同盟となっていく。英国は「ゼームス」と名乗る謎の人物を明治政府要人と接触させて多くの機密情報を与えた背景が濃厚にある。
南北戦争で疲弊したアメリカはそれなりの外交感覚を日本に教え込み、明確な日本支援の体制があった。アメリカは早い段階で朝鮮を見限っていた。
また宣教師虐殺にフランスが激高したにもかかわらず以後、朝鮮からさっと手を引くのは、メキシコにたてた傀儡政権のことで手が一杯だったことと隣国ドイツの脅威が目の前にあったからだ。
また朝鮮を「属国」として扱ってきた清が国際外交を前にして二枚舌、三枚舌を弄して時間稼ぎをしていたことなど多くの国際的要素が舞台裏で多大な影響をもったことを淡々と事実を叙述されながら客観的にかつ具体的に述べているのである。
まずは広く流布してきた従来的な「征韓論」解釈への疑義である。
「征韓論」を西郷さんが唱えたと戦後の左翼歴史学はさかんに強調し、これが朝鮮侵略のテキストであるかのごとき風説、誤解を撒き散らした。
西郷さんは朝鮮の非礼を糺すために道義と礼節を説くために単身ソウルに乗り込もうとしており、当然だが死を覚悟していた。
もし西郷が朝鮮で殺されれば、日本は報復戦に出撃せざるを得なくなり、新政府としては財政もよちよち歩きの段階で、それは自殺行為になるから隠忍自重せよと木戸、大久保は参議で論争した。これが明治六年政変の直接の切っ掛けとなって西郷、桐野、江藤らがこぞって下野し、新政府は岩倉、木戸、大久保らで守ることとなった。
かれらは西郷ら強硬論と異なり、朝鮮との関係改善にきわめて慎重だった。つまり征韓論とはイメージのひとりあるきに過ぎず、そういう暴論は最初から存在しなかったのだ。
「にもかかわらずこの政変からわずか二年後には漢江河口にある江華島で朝鮮との軍事衝突が起こり、その翌年には早くも日朝修好条規が結ばれる」(中略)「条規の締結には(背後で親分である)清国の承認があった」。
それなのに、なぜ日本と清国はその後の戦端をひらくに至るのか?
 ▼近代史は不思議なことばかりである。
 
朝鮮を開国させたのは日本である。日本はペリーの役割を果たしたが、なぜ、あの時期に国際情勢が日本にそこまでの歴史的プレイヤーを演じさせたか。
その後、アメリカは暗黙裏に日本の行動をサポートした。それが「謎」である。
渡邊氏は、従来の日清戦争を二国間関係、いや朝鮮は清国の属国だったわけだから日清二ヶ国の文脈で歴史を解釈してもいいことになるが、そうではなく同時期にアメリカ、英国、フランス、そしてロシアが背後でどう動き、どのような役割を演じたか。それによって日本の方針がいかに左右されたかを淡々と事実を並べ、また同時に新発見の資料を駆使して、従来の解釈をつぎつぎと転覆させていくのである。
また外国人顧問団と舞台裏での活躍が、はっきりと映像が浮かぶように説かれる。これまでの類書にはまったくでてこない日本外交のご意見番的なアメリカ人学者のアドバイザーがいた。日本にはスミス、朝鮮にはアレン、そして清国にはフォスターというブレーンが背後で助言していたのだ。同時に諸外国の大使、公使とその周辺を囲んだロビィストや政商にはキャリアのない詐欺師や一攫千金を夢見る有象無象がいた。
1852年、ペリー提督の艦隊は日本へむけて船出した。その頃、日本に多大な関心を抱いていたのがウィリアム・スワード上院議員だった。かれこそはリンカーンと大統領選挙を争い惜敗した政治家で、リンカーン政権で国務長官となって外交を任された。そしてリンカーン暗殺後のジョンソン政権でもスワードは国務長官にとどまり、おりから軍艦の買い付けにきた日本使節団を歓待した。
スワード長官は実にあっさりと最新軍艦を日本に売却することを認めた。
同時期、朝鮮海域で米国戦が行方不明となり、またフランス人宣教師が殺害され、1866年にはフランス人宣教師九名をふくむキリスト教徒一万人が虐殺された。
「スワード長官は駐ワシントン仏公使に合い、朝鮮開国を共同プロジェクトとして進めないかと持ちかけた。(狙いは)米仏友好関係の回復を世界に示すことができる。同時に日本開国に続けてアメリカの極東外交の展開にあらたな花を添えることになる」。
アメリカは南北戦争の荒廃からインフラ構築に精力を傾けていた時期であり、フランスはビスマルク・ドイツの勃興を前に極東プロジェクトへ関与する余裕がなかった。だから、日本に期待が高まっていくという背景があった。
英国はロシアの南下をもっとも懼れた。
▼米英仏の砲艦外交と日本のアプローチの差違、
米国艦隊は江華島から親善を表しての上陸を試みるが、砲台から銃火が浴びせられ応戦する。以後、繰り返されるのは事大主義朝鮮の不意の銃撃、とってつけたような謝罪、ああだこうだの言い訳を延々とがなり立てての時間稼ぎ、文書の不備などに難癖を付け使節団を苛立たせたかと思うと土壇場で清国にお伺いを立てるので等と抗弁し、結局、朝鮮は清国の属国でしかなく、列強は、この交渉は清国の李鴻章と話し合いをするほかはないとする結論に至った。
日本の新政府の外交顧問になったのは学者のペシャイン・スミスだった。木戸や伊藤が米欧使節団でアメリカに滞在した折、多大の影響を受けた。かれは政治学、法律ばかりか経済学者でもあり、自由貿易にひそむ英国の陰謀をみぬき、アメリカ・スタイルとしてのインフラ構築と労働力の重要性を説くブレーンでもあった。
日本と朝鮮の関係改善に動き、日朝修好条規にこぎ着けたのは、「西洋列強が日本の開国交渉を支持したことが重要な要因だった」(74p)
そして木戸は米国に七ヶ月滞在しているが、「対朝鮮外交が二国間交渉ではないことを明確に理解していた。(木戸が教えを請うたスミスが)スワード国務長官と昵懇であった」(83p)。
すなわち木戸は、朝鮮開国にこぎ着けるには宗主国清と、フランスと米国、英国という欧米列強にくわえ南下をねらうロシアを含める多国間交渉をすすめる必要を知っていた。
同時期に頻発した国際係争は裁判にもなったが、明治政府には法律顧問としてG・S・ヒルがいた。
このように日清戦争にいたる背景には複雑怪奇な要素が複合的にからみあい、同時に清国と朝鮮の二枚舌三枚舌に振り回される歴史的背景が丹念に本書では述べられている。
読むのに一週間ほどかかったが、ともかく圧巻である。
杜父魚文庫

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