「ああ堂々の輸送船!さらば祖国よ栄えあれ!」
後藤健二さんの殺害で別の情景を思い浮かべている。戦争末期の最後の輸送船で満州に渡った弘前師団の将兵たちが去り行く祖国に向かって一斉に戦闘帽を振って別れを告げた。
父・古沢元もその一人だったが、満州のハイラルから来た軍事郵便でも、もとより生還を期す言葉はなかった。妻やわが子のためにソ連軍の侵攻と戦う意志しか連ねていない。
武運つたなくソ連軍の侵攻に敗れたわが関東軍はシベリアに貨物列車で送られて非道にも労役に使われた。
その数は五十七万五千人(1955年外務省発表)。シベリア各地の収容所に送られて11年もの歳月にわたって苦役を強いられた。帰国できたのは四十七万三千余人(厚生省調べ)。
別の計算式もあるが、少なくとも六万四千人の日本人が日本の土を踏まずにシベリアの土となって、いまも静かな眠りについている。
父が送られたイルクーツク収容所は十八。一千人規模で部隊編成が行われ、ソ連軍の監視兵によって徒歩で各地の収容所に送られた。一万八千二十九人が強制労働に駆り出され、このうち一千五百十一人がシベリアで死亡している。
イルクーツク第一収容所だけでも九十七人が栄養失調で死亡、遺体はゴザに乗せられて、丘の向こうの凍土に掘られた共同墓地に埋められた。
私はこの悲劇を記憶にとどめるために沿海州やシベリア奥地の墓参に二回行っている。帰還した将兵も死去し、妻や子の多くは亡くなっていまは孫たちの世代となった。シベリアの悲劇も風化しようとしている。
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コメント
朝、夕寒い時、古沢さんのお父さんが、シベリアで、体験された寒さは、どれほどつらかったのかな、と考えます。画家の宮崎 進さんは、鎌倉広町・台峯の自然を守る会の呼びかけ人の一人ですが、シベリア抑留から帰ってこられた方です。作品は過酷なシベリア物語が沢山あります。抑留中も手にはいるものを画材にしてかかれたと申してました。
文筆家の古沢さんのおとうさんは、なにかかいておられたのではないかと、考えてます。