18426 嗚呼 松山歩兵第二十二聯隊    西村眞悟

二月十五日に伊予松山に行き、護国神社境内の会館における勉強会の講師を務め、翌本日十六日に堺に帰った。

護国神社の背後にそびえる綺麗な円錐形の山の裾に、多くの慰霊碑が建てられている。

少年飛行兵の碑を観て、勉強会においては、私のホームページの表紙にある台湾の桃園飛行場から笑って沖縄に出撃していった陸軍特別攻撃隊の少年兵達の写真を見てもらおうと思った。

そして、境内最大の慰霊碑、「歩兵第二十二聯隊 忠魂碑」に参った。

勉強会に参加した人達に聞くと、松山の地元でも、二十二聯隊のことを知らない人がほとんどになっているとのこと。

  
他方、松山市は、観光客むけに「坂の上の雲の町」との宣伝文句を流している。司馬遼太郎氏の松山出身の秋山好古陸軍大将と弟の真之海軍中将そして俳人の正岡子規を主人公にした歴史小説「坂の上の雲」がベストセラーになり、NHKがドラマ化して放映したので「坂の上の雲の町」をうたい文句にすれば観光客が集まると、松山市が見込んだようだ。
  

なるほど、司馬氏の「坂の上の雲」には秋山兄弟は書いてあるが二十二聯隊には触れられていない。

そこには海軍の秋山真之少佐が旅順の二百三高地攻略の重要性をまず陸軍に指摘し、陸軍の児玉源太郎が二百三高地を墜したから、旅順要塞が陥落したように書いてある。

しかし、松山市よ。小説に飛びつかずに、郷里の人々の実際の歴史をもっと大切にしたらどうか。

  
旅順要塞が陥落したのは、松山歩兵第二十二聯隊が肉弾突撃を繰り返して、永久堡塁である東鶏冠山を突破し、旅順市街を眼下に見下ろす望台に雪崩れ込んだからである。

旅順が陥落しなければ、我が国は北の三十万のロシア軍と南の旅順要塞に籠もる三万のロシア軍に前後を囲まれ崩壊の危機に瀕する。

従って、旅順が陥落しなければ、我々が日本人として生まれてきたかどうかも分からない。この危機を救った英雄の碑が、護国神社の「松山歩兵第二十二聯隊 忠魂碑」である。

イギリスは日英同盟のよしみで、イワン・ハミルトン中将をはじめとする高級将校を観戦武官として日露戦争の戦場に送ってきた。

彼らの報告に基づくイギリス政府の「公刊日露戦争史」には、次のように書かれている。

「結論として旅順の事例は今までと同様に、堡塁の攻防の成否は両軍の精神力によって決定されることを証明した。最後の決定は従来と同様に歩兵によってもたらされた。

・・・この旅順の戦いは英雄的な献身と卓越した勇気の事例として末永く語り伝えられるであろう。」

この旅順要塞攻防の成否を決定した歩兵とは、松山第二十二聯隊である。「英雄的な献身と卓越した勇気の事例」を残したのは、松山第二十二聯隊である。

そして、これを「末永く語り伝える」べきなのは、松山市ではないか。(もちろん、旅順要塞に肉弾突撃した歩兵は二十二聯隊だけではない。しかし、松山市は、小説ではなく、まず第一に二十二聯隊の実際の事例を語り伝えねばならない)

実は、五年ほど前に、同じ松山の護国神社で「二十二聯隊の碑」に参ったときにも、二十二聯隊は、その郷里である松山で、その国家に果たした武勲にふさわしい扱いを受けていないと感じたので、改めて、以下に、松山歩兵第二十二聯隊の英霊がたどった歴史を書いておきたい。

■松山第二十二聯隊忠魂碑前の「碑文」

聯隊は、明治十九年八月十七日、明治天皇の聖諭と共に軍旗を親授され、堀之内に創設された。

尓耒主として県内の若人が入営し、郷土聯隊として六十有余年に亘り、日清、日露の両戦役を始めシベリア派兵、上海事変、日支事変、北満の警備等、数度の外征に赫々たる武勲をたて、豫州健児の名聲を高めた。

大東亜戦の末期には、沖縄に転進して本土防衛の重任にあたり、優勢なる米軍の猛攻を受け、敢然死斗防戦につとめたが、遂に昭和二十年六月、沖縄南部地区の戦斗において、軍旗もろとも将兵全員玉砕した。

ここに、諸先輩の偉勲を偲び、その功績を称え、英霊の永久に安らかな鎮座を祈念する。

 
松山の歩兵第二十二聯隊は、日清戦争においては仁川に上陸して平壌を支那兵から解放し占領した。

明治三十一年、善通寺に乃木希典将軍を初代師団長とする第十一師団が創設されるや同師団の隷下に入り、日露戦争においては、乃木希典軍司令官が指揮する第三軍に編入されて旅順要塞攻略に当たる。

その担当攻略要塞は、旅順の死命を制する最重要の永久堡塁である東鶏冠山であった。歩兵によるその永久堡塁への攻撃策は、英国の「公刊日露戦争史」にあるとおり、突撃であった。

  
二百三高地は明治三十七年十二月五日に陥落したが、旅順要塞自体は、永久堡塁に守られてびくともしなかった。

  
しかし、二十二聯隊を含む我が歩兵部隊は、要塞を地下から爆破する工兵部隊と連携して屍の山を築きながら肉弾突撃を繰り返し、十二月三十一日に、旅順の三大永久堡塁である東鶏冠山、二龍山そして松樹山を落とし、旅順は遂に、望台を残すのみとなった。

翌、明治三十八年一月一日午前七時三十分。第九師団(金沢)の第三十五聯隊第三大隊長増田少佐は、望台を眺めて、「獲れる」と直感し、直ちに突撃した。

善通寺の第十一師団第四十三聯隊第二大隊長松田少佐も直ちに突撃した。
  

第三軍司令官乃木希典大将は、両大隊の突撃を追認し、二十八センチ榴弾砲をもって望台への集中砲撃を命じた。

  
午後三時頃、ロシア兵は退却を開始した。歩兵部隊の突撃が望台山頂に殺到していった。午後三時三十分、望台山頂に日の丸が掲げられた。
  

午後四時三十分、第三軍前哨に旅順要塞司令官ステッセル中将の軍使が訪れ、降伏を申し出た。

一月五日午前十時五十分、旅順要塞司令官ステッセル中将は、水帥営を訪れて乃木将軍と会見した。

此処に、十三万人の兵を投入し五万八千の死傷者を出した旅順要塞攻防戦は終結した。

一月十四日、水帥営北方高地で戦没将兵の慰霊祭が行われた。午前十時、乃木希典大将が、祭壇の前に進んで祭文を朗読した。式場からは参加した将兵の嗚咽が聞こえてきた。

「乃木希典ら、清酌庶羞の奠を以て、我が第三軍殉難将卒諸士の霊を祭る。ああ、諸士と、この栄光を分かたんとして、幽明あい隔つ・・・悲しいかな。地を清め、壇を設けて、諸士の英魂を招く、こい願はくば、魂や、髣髴として来たり、饗けよ」

この式場には、多大の犠牲者を出した松山第二十二聯隊の戦没将兵の為に、聯隊の郷里である愛媛県越智郡河北高等小学校五年生の送ってきた造花が供えられていた。

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