病院から戻ってブログを開いたら、「①芥川賞なら受賞してやるが、直木賞ならいらない」がトップで読まれていた。
迫り来るファシズムの嵐のまえに、日本の文学者たちがどのように身を処したのか、戦後、隆盛となった直木賞が沈滞した大衆文学から脱皮する動きが戦前のこの時期ににあった、など昭和文学史上、いくつかの研究が為されている。
文藝春秋社が直木三十五賞を制定した昭和九年(1934)。この時、合わせて芥川龍之介賞も作られた。芥川賞の対象は「純文芸」、直木賞の対象は「大衆文芸」とされた。
川口則弘氏の「直木賞物語」(2014年 バジリコ)によると直木三十五は大衆文芸の実作と批評を積極的に行い、普及に努力した人だが四十三歳の若さで亡くなっている。
彼の才能と人柄を愛していた菊池寛は、直木の名を記念して文学賞をつくることにし、自ら経営する文藝春秋社の佐々木茂索専務に詳細な検討を指示した。
選考委員は菊池寛、佐々木茂索、大佛次郎、白井喬二、三上於菟吉、吉川英治、久米正雄、小島政二郎の八人。いずれも通俗現代小説や時代小説で人気を得ていた。
この頃の文壇では、作家は同人誌に参加して修行を積むのが主流であった。懸賞小説の当選しても、それでは文壇に出たとは見なされず、懸賞小説は腕試しであり、小遣い稼ぎ、といった認識であった。
第一回直木賞の受賞作家は川口松太郎、明治期を舞台にした人情噺「愁風景」や「風流深川唄」「鶴八、鶴次郎」などで、すでに新人作家といえないが、目ぼしい候補が見当たらないので、川口の(明治もの)全般の業績に受賞が決定した。
一方、芥川賞は石川達三の「蒼氓」。注目を浴びたのは石川の「蒼氓」で、菊池寛は「直木賞の川口君も、まず悪口は聞かないから、やむを得ない選定として、認めてくれたのだと思っている」といわざるを得なかった。
中野重治は「直木賞がどういう作家に与えられたかは、日本の現代文学にとって直接の興味にならない。私にしてみても”大衆文学”のことはよく知らないので、直接の興味にならない」(中外商業新報 1935年8月14日号)と手厳しい。
菊池寛が熱意をこめて作った直木賞だったが、大衆文学と純文学に向けられる関心には雲泥の差があったと川口則弘氏は回顧している。
当時の文学状況については「戦時下抵抗の研究」(同志社大学研究叢書 1968年)で辻橋三郎氏は「”人民文庫”の姿勢」を書いている。
「人民文庫」は武田麟太郎を主催者として昭和11年(1936)3月に創刊された同人誌。参加したのは「日暦」と「現実」同人。
創刊号には武田麟太郎の「井原西鶴」、高見順の「故旧忘れ得べき」、矢田津世子の「神楽坂」の作品がみえる。
「日暦」は昭和8年(1936)9月20日付けで第一号が発行された同人誌。「日暦」作家に共通していたのは、政治的なイデオロギー的ではなく、生活的、実感的に権力や体制ならびに、それに追従するものに対して、批判的、否定的であろうとした。
「日暦」作家は「人民文庫」に個人参加したが、この姿勢は貫かれている。
高見順は、ともすれば、体制賛美に走る「日本浪漫派」を批判し、田宮虎彦は、体制の御用雑誌「文芸懇話会」を痛罵している。田宮は文学における科学精神の探求を高唱して、蕩々として日本を覆いつつある”神がかり的な非合理性”に挑戦した。
辻橋三郎氏は「文芸懇話会」とは、時の警保局長・松本学とファッショ的大衆作家とみられていた直木三十五とによって、計画が練られ、菊池寛、吉川英治、白井喬二など大衆作家を中心にして設立された”官民合同”の団体だったと回顧している。
武田麟太郎はいち早く「文芸懇話会」の存在価値を「文学評論」創刊号(1934年4月)で徹底的に否定して、「人民文庫」の一周年記念号(1937年3月)でも「文芸懇話会」の排撃とリアリズムの正統的発展、散文精神の確立をあらためて強調している。
「人民文庫」もファシズムの嵐の前に廃刊を余儀なくされ、多くの転向作家を生んだが、このような中で、一方、直木賞の側でもすでに著名な作家に賞を与えるのではなくて、新人発掘の責務を果たすべきだという大佛次郎のような委員が現れている。
直木賞が芥川賞より文学的に低くみられる傾向に対して第11回から芥川賞の全選考委員に直木賞委員も兼ねさせるという奇策に打って出る。
さらに『オール讀物』『大衆文藝』『サンデー毎日』『新青年』といった商業娯楽誌ばかりでなく、同人誌からも候補となり得る作品を探そうとする姿勢もとった。
第12回下半期の直木賞の候補リストに古沢元の「紀文抄」(同人誌 麦)が加えれたのには、このような背景があったのだろう。
古沢元が戸惑ったのも無理はない。また選考委員の評価も分かれた。
吉川英治=まず古澤氏の「紀文抄」が審査にのぼったが、わたくしは四篇中この作をもっとも買わなかった。
作家自身もまた純文学を目ざした心構えで書かれたものかと思うが、それにしても時代観や作中の人物が甚だ薄手で新たに示されているものはない。
ちらと出て来る義士観などにしても一応ずっと以前に唯物史観の人々に云い古された語片が交じっているという感じを出ない。
巧緻な筆致はある。要するに部屋住のひとが窓から閑にまかせて世間のあらを見て批評しているようで世間の実感なり生々しさがない。
もちろん大衆文学の読者には縁遠い性格だし、なおこの程度では純文学温室で観賞植物として見るにもものたらないのではないかと思われる。
白井喬二=今度の候補作品の内から、僕は「上総風土記」「廟行鎮再び」の順序に選び、別に「麦」という同人雑誌に載った「紀文抄」をも併せ推薦した。
しかし「紀文抄」は作者古澤元氏が純文学のつもりで書いたのだからと云う説も出たし、僕としてもこの作は巧いには巧いが、表現が古典的といっても好いくらい類型で創造の領域への踏込みが一歩足らないと云う点で、いつでも引っ込めて好いと附言したのだから、諸氏の賛意はかばかしからざるを見て、僕も潔く断念した。
宇野浩二=『紀文抄』は、直木賞というものを頭に入れなければ、私には、この方が、今度の直木賞候補作品の中で、最も面白かった。
ところが、この小説は、他の銓衡員たちが、終りの方に――仮名世説ヨリ――とあるので、太田南畝の『仮名世説』の中から得た題材であるというので、私も「それもそうか、」と思って、推奨されなかった。
しかし、私は、後になって考えたのであるが、そういう事に拘らず、この小説は、直木賞の候補より、芥川賞の候補になった方が、と思った。しかし、これは、固より、後の祭である。
純文学の新人作家を直木賞に取り込もうという試みは第12回下半期で終わる。芥川賞の選考委員の参加はこの回で終わった。
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