やはり気になる。生粋の信州人と思っていた母と姪の従妹が「おらがソバ」よりもウドンが好き。どっちでもいいではないか、という声も聞こえてくるが、揃って二人ともウドン党となれば、その理由を調べたくなる。
ヒントは母の実家・信州上田の商家にあった。
明治12年(1879)にこの商家の創業者・木村義哉が上田町(現・上田市)土橋で木村瀬戸物店を開業している。
いわゆる”士族の商法”ですぐに立ちいかなくなると噂されたが、明治、大正、昭和の時代をくぐり抜けて店を大きくした。義哉には一人娘・静司がいた。
静司(明治20年~昭和2年)は、作家・一ノ瀬綾の小説「幻の碧き湖」で、<富士額のおっとりした面差しに、御所人形を偲ばせる目鼻立ちは、ひさし髪に着物がよく似合った。外出すれば行き交う人が振り向いた>と描いている。写真が残っているので、たしかに美人だったのは間違いない。
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明治では数少ない上田高等女学校の卒業生だったが、学校では”上田小町”と評判だった。抜けるような白い肌をしていたが、美人薄命、41歳の若さでこの世を去っている。
母は静司の長女、従妹は長男・金一郎の長女。家系調べが目的ではないので、あまり深入りするつもりはない。
問題は木村家が信州の土着から出たのではなくて、宝永3年(1706)に幕命によって信州上田城主に転封された松平氏の家臣団にその名があったことである。家禄は上級武家の一番下の150石。馬一頭が与えられ上田城に出仕している。
明治維新で廃藩置県が行われ、最後の藩主となったのは松平忠礼。戊辰戦争で松平藩も朝廷軍として会津に出兵参戦し、3000石が加増されている。譜代・松平藩は五万8000石。
薩長が主体の戊辰戦争だったから松平藩に格別の軍功があったとは思えない。ほどほどの参戦加増ということだろう。
姓氏家系大辞典の上田の項に利長(彦四郎)、信一(伊豆守)、信吉(伊豆守)、忠晴(伊賀守)、忠昭(伊賀守)、忠周(伊賀守)、忠愛(伊賀守)、忠順(伊賀守)、忠済(伊賀守)、忠固(伊賀守)、忠禮(伊賀守)、忠正の記載がある。
また日本系譜綜覧には松平長親を祖とする松平一族の家系が記されているが、利長(彦四郎)については藤井松平、信吉(伊豆守)は上野高崎、忠晴(伊賀守)は丹波亀山とあって信濃上田は忠優(姓氏家系大辞典にはない)、忠晴(伊賀守)になって初めて出てくる。
この松平忠優は播磨国姫路藩主・酒井雅楽頭・忠実の子。文政12年(1829)に上田藩主松平忠学の婿養子となり、19歳で上田藩主となった。鎖国を打ち破り開国を唱えた幕末の英傑の一人に数えられている。
開国派だったので、鎖国・攘夷論の徳川斉昭と対立、斉昭が参与を辞任するや忠優も老中から解任された。後に忠優は名を忠固と改めた。忠優の墓は上田市・願行寺にある。享年48歳。
上田松平家については多くの研究家がいるので、これ以上は述べるつもりはない。
さて、本論の「おソバよりウドンが好き」に戻りたい。松平家の家臣だった木村家は西国の出だったのは明らかである。上田・木村家には主君は但馬国出石藩から信濃国上田藩に転封になったと伝えられている。但馬国出石藩はいまは兵庫県豊岡市出石町にあった。その城郭・出石城跡も残っている。
さらに藤井松平家は利長を祖とする松平氏の庶流。十八松平のひとつだが、徳川家康の信任が厚く二代信一の時に小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦いなどで活躍して、大名に列して、常陸国新治郡土浦藩3万5千石を領した。
三代信吉の次男・忠晴を初代とする傍系は伊賀守を世襲しているが、駿河国田中藩2万5千石、遠江国掛川藩2万5千石、丹波国亀山藩3万8千石、武蔵国岩槻藩4万8千石、但馬国出石藩4万8千石を経て信濃国上田藩5万8千石で定着した。
信州・上田城主になる前の松平家はその系譜をみると、西国だけでなく幕命によって多くの国を渡り歩いていた。同時に江戸中央にも老中職など開国派の人材を出している。上田というと真田幸村しかいないと言われそうだが、それはちょっと違うのではないか、
上田城に入った松平家は節約を旨として家臣団に徹底させていた。各地で頻発した農民一揆は起こっていない。
上田・木村家は初代義哉以来、贅沢や無駄な出費を徹底して抑え、家業を大きくしてきた。義哉の隠居部屋には最後藩主・松平忠礼の写真が飾られていたが、商人になっても心は武家のつもりだったのだろう。
母は厳格な家風のもとに育てられ、静司と同じ上田高等女学校から東京の実践女子大英文科に進学したが、同じ一族の村田家に預けられた。その時なって初めて自由な家風に触れてショックを受けたと生前に語っていた。
その母の手料理は手打ちウドン。関東風の濃口醤油は使わない。薄口醤油というよりは、塩味をもとにして、だし汁に工夫をこらしていた。関西風の手打ちウドンといっていいだろう。
姪の従妹が作った手打ちウドンはまだご馳走になっていないが、察するに母の手打ちウドンと50歩、100歩ではないか。
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