18621 北海道でオーロラ撮影成功    古沢襄

■国内で11年ぶり

日本の古代史文献を読んでいると、オーロラが日本各地で見られた記述が多い。「日本書紀」の中に「天に赤気あり。長さ一丈余り、その形雉(キジ)の尾に似たり」とある。

日本の古文献でオーロラについて書いてあるのは「日本書紀」が最古のものだが、今日に至るまで50数件のオーロラ記録が日本各地で残っている。最古のものは、推古天皇の御代、西暦621のものである。

もちろんオーロラという用語は使っていない。「赤気」とか「黄気」などと言っていた。

日本のオーロラは寒期に多くが現れていた。暖期にはオーロラは現れない。それも北海道や東北のような北国(きたぐに)で見られている。

私にとって父祖伝来の故郷・岩手県沢内村でもオーロラ現象が見られた。村に伝わる「沢内年代記」の中にその記述があった。当時の村人たちは大きな山火事と騒いでいた。明和七年(1770)の夏のことである。

これがオーロラ現象だと私は指摘したが、その根拠は江戸時代の「想山著聞奇集」にあるオーロラ現象と日時が一致しているからである。

三好想山は江戸時代後期の随筆家だが、好んで各地の伝わる奇談を収集して、その著作が「想山著聞奇集」五巻として今日に伝わっている。

明和七年七月二十八日の夜、日本各地でオーロラが見られて、輝く光の幾条もが立ち登り、天のあらん限りをたなびき、天変だと人々が騒いだ。このオーロラ現象は九州の長崎でも見られている。日本列島が凍りついた寒さで震えていた。

「沢内年代記」の下巾本には「七月二十八日夜子ノ時ヨリ始メテ空ノ色赤クナル雲ヤケシ如シ」。

白木野本では「七月二十八日ノ夜子ノ時始ヨリ、東南一面ニ空ニ御光サス。北ノ方空ノ色赤ク雲ヤケシ如シ」。

さらに草井沢本は「七月二十八日子ノ時始より、北ノ方そらのいろ雲やけの如く。あがくなりて北東西一面に南方江空半分まで、御光さす」とある。

オーロラの知識がない時代のことだから、大規模な「山火事」と騒いだのも無理がない。今日に至っても「想山著聞奇集」を知らなければ、山火事説のままで片付けられていただろう。

悲劇的だったのは、オーロラが見られるほど日本列島が冷え込み。農作物がとれなかったことである。

沢内農民も不作に見舞われ、村を捨てて逃亡する者も増えている。追い打ちをかけたのは十三年後の天明三年に浅間山が大噴火を起こしたことである。

浅間山の大噴火で火山灰が天空高く舞い上がり、寒冷期で作物がとれない飢餓の状況に追い打ちをかけている。

天明年間には東北地方で約10万人の餓死者を出した天明の大飢饉が発生した。

ひるがえって、いま世界的に異常気象に見舞われている。ことしの冬の大雪や異常寒波の襲来は普通ではない。

ことしが冷夏に見舞われ、夏の期間も短い様だと、日本は輸入穀物の依存度がグーンと高まるであろう。美しいオーロラが日本でも見られると、手放しで喜ぶ気にはなれない。

■北海道名寄市にある天文台が、18日未明、通常は北極圏や南極圏でしか見られないオーロラの撮影に成功したことが分かりました。

3日ほど前に、太陽の表面で大きな爆発があり、電気を帯びた大量の粒子が地球に飛来したのが原因で、天文台によりますと、国内でオーロラが撮影できたのは、11年ぶりだということです。

オーロラを撮影したのは、北海道北部の名寄市にある「なよろ市立天文台」です。

18日午前3時半すぎ、天文台の職員が、北の空がオーロラの光で赤く染まっているのを撮影したということで、国内でのオーロラの撮影は、平成16年11月以来、11年ぶりだということです。

オーロラは、太陽から届いた電気を帯びた粒子が、北極圏や南極圏に集まって光を発する現象で、太陽の表面で大きな爆発があり、地球の磁場が乱れると、日本の北海道のような低い緯度の地域でも観測できることがあります。

オーロラを撮影した「なよろ市立天文台」の職員、中島克仁さんは、「太陽の活動が活発になっていたので、数日前から可能性があると思い、撮影の機会をねらっていた。

きょうは、午前0時半ごろから観測を続けていたが、午前3時半ごろ、カメラの長時間露光で撮影することができた。11年間、撮影の機会を待ち続けてきたので、撮影できてうれしい」と話しています。 (NHK)

 
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